「約束通り、携帯を返しにきましたよ」
「………馬鹿だろ」

 返しに来いと言ったくせにそんな返答をされたのは深夜を過ぎた明け方にも近い夜のことだった。わざわざ持ってきたのいうのに、彼は酷く馬鹿に呆れた顔をこちらに向ける。
「馬鹿とは随分ですね、貴方が言ったんじゃありませんか?」
 はい、と前に渡されたそれを返せばすんなりと受け取る。
「……郵送とかだと思ってよ」
 心底謎だと表情に浮かべた彼をこちらも見つめる。
 もちろん郵送も考えたのだ。けれどなんとなく、本当になんとなく直接渡すのも悪くないと思った。だから暗号を交えた手紙を彼宛に送ったのだ、あの探偵事務所の幼馴染の彼女にばれないように。
 そうすれば彼はやはり律儀に応じてくれたらしい。携帯電話で直接聞くという方法も考えたのだけれど、そこまで距離を縮めるのは、それもなんとなくだけれど、駄目な気がした。
 渡した携帯をけれどこちらも離さずに声を掛ければ、離せという風に携帯を引く力が増す。
「なんだよ」
「名探偵ってさ、いつもあんなんと戦ってんの?」
 砕けた口調はもう抵抗も感じない。そう考えると随分素の状態を曝してきたものだと思う。
 それでもあの事件は余程驚いた。変装をしてくれと言った彼はとても焦っていてまるで縋るような目にも見えた。とは言っても、あの高圧的な雰囲気ではあったけれど。
 よく分からないままに手を貸したのは勢いと速攻で変装がバレたことに対する自分の焦りもあったのかもしれない。
 けれど手を貸さなければ良かったと思うくらいの危機一髪だった。ハンググライダーが無ければあの列車と一緒に黒煙をあげていたに違いない。そこまでの状況になっても大丈夫だろうと思ってくれたのは、信用だろうか、何しろ傍迷惑な話である。
 それでも関わって手を貸したのだから気になってしまったのだし、そのくらい教えてもらう権利はあるように思えた。
「違ぇよ、いつもじゃねぇ。たまにだ」
「たまに、って、お前、そのさ……あー、大丈夫?」
「……まさか天下の大怪盗に心配される日がくるとはな」
 馬鹿にするのではなく、純粋な驚きのようなそれを口にして彼は目を見開いた。
「だってなぁ、オメーあれはヤバイだろ! 命狙うとかのレベルじゃねーよ、爆破だぞ爆破!」
「ああ、まぁそうだな」
 つか朝方だぞオメー声デカイし煩い。そうさらりと言われた台詞に少しばかり凍りつく。だってその反応は、あれを平然と受け入れるくらい、彼にとって当たり前の事件だということ。

「悪かったな」
 少し呆然としていると投げられた言葉に穴が開くほど見つめてしまいそうになる。
 笑顔はそれでも納得していないようで、きっと怪盗という存在に手を借りたということに何かしら思うところがあるのだろうと思った。それでも、怪盗だろうとなんだろうと利用してでも助けたかったのだろう。彼女と彼女と母親と仲間を。
 苦笑気味にそれに応える。
「いや? それはいいけど、貸しだし」
「あれでチャラじゃねーの?」
「はぁ!? あんっっな危ねー目に合わせておいてチャラな訳ねーだろ。三回分くらいお釣りがくらぁ」
 酷く心外な、けれど彼はそれが当たり前のような信じられない一言に顔を近づけて言えば流石に驚いたのか、二、三歩遠ざかる。
「わ、わぁーったよ」
「よし、二言はねーな? なにやってもらうかなぁ」
「泥棒の片棒は担がねーからな」
 そう言い切られて分かっていたので笑う。そんなこと頼むつもりもない。
「まぁ、後々にとっておくぜ。俺が爆破されそうになったら身代わりっつーことで」
「…………オメーの方も結構アブねーじゃねーか」
「いやいや、そうなったらってこと。名探偵には敵いませんよ?」
 茶化すように言ってみせれば嫌そうな顔をされる。納得していないのだろうか、幸いなことに突っ込んではこなかった。まだそこまで事情を知られるのは如何しがたい。
「んじゃ、ちゃんと返したからな」
「……おう、えっと……」
 掴んでいた携帯を彼に押し返せばは不思議そうに応答される。
「サンキュ、な」
 そういう顔はなんだか少し照れてなおやっぱり不満そうに見えたのでますます笑みが零れる。可愛げのないとはまさにこのことだ。もちろん実年齢が同じなのだから、可愛げなんてあってないようなものだけれど。
「おかげでアイツを助けられた」
 けれど付け加えられた言葉の音はとても真剣で目も真っ直ぐだ。
 助けるためには、そのためには彼のきっと高いだろうプライドもいらないと案に言っているようだ。
「……じゃーな、借り作ったんなら返す。またなキッド」
 身を翻しすたすたとその場から離れる。小学生とは名ばかりの背中がなんだかとんでもなく高く見えて、呆気に取られたまま見送ってしまった。




 実のところ怪盗は探偵が少し羨ましかったのかもしれない。

 闇の中で闇と闘う怪盗の仲間はただ一人だ。自分から投げ売って父親の敵をとるために怪盗になった。
 けれど彼は違う。おんなじ、だなんて少しでも考えてしまった自分が馬鹿みたいだ。
 だって彼は違う存在だ。だって彼はあくまで巻き込まれた側だ。直接的に彼が好奇心というそれで渦中に自分の身を投げ入れたとしても、最終的に今の状況に至った最期の段階は他者によって置かれたものだ。元に戻る術を探しているのだからそれは想像に固い。だから今の状況になったのは致し方ない、そんなものだったのだろう。
 ほらこんなにも違う。拒否も賛成もできる立場で現実へと堕ちている自らは、最期の段階は自分自身で置き切ったのだから。
 たまに見合える時に、たった数秒だけだとしても、彼の周りには人がいる。彼の本当の名前を知らずとも知っていたとしても、それでもなによりも信用して、大切に思い、そうして仲間ができている。やっぱり全然違う。誰かを欺いて欺いて、そうして誰に対しても嘘を重ねて生きているこちらとは本当に全く以って。

 違う。違う。全然同じなんかじゃないじゃないか。

 だってほら、また彼を信用する人が増えた。きっと全部言ったって皆を守るための嘘だから、きっとそんなに咎められないんだろう。大義名分が違うんだ。結果だけを求める彼には分らないかもしれないけど、でも、結果に行きつくまでに経由する過程だって重要なのだと思う。彼は、光の中で闇を暴くのは正論であり善だ。
 嘘をついているとは言うけれど、その嘘は誰より何より他人を守るものだ。だからきっとその嘘を彼女は許してくれる。
 ほら、俺はいつだって独りぼっちだ。
 だから、人を傷つけたりしないって決めた。すべてが犯罪行為の中の、ただ一つだけの悪あがき。

 本当に自分とは、自分の嘘とは大違い。

 違いすぎて一周してしまったような気さえするのはただの願望だった。
 知らせなくたっていい事実だってある。誰にも教えるべきじゃない真実だってある。自分の意思で封じ込める現実だってある。けれど彼はそれを良しとはしない。だからそれを零すんだ。真実はひとつだけだから、それを解明するために彼は存在しているかのように。
 彼とそう、同じだと思いたかった。嘘をついて大切な人を欺いて、そうして独りですべてを片付けようとする。身勝手で酷い人間なのだと、結局は同じ場所に居るんだと。


 だからこそあの場面は衝撃だった。
 彼にとっての解決すべき事件があそこまで大事であるとことに。完全な悪意と殺意の下で爆発や銃を突き付けられてもその事実を冷静に反応をすることに。
 もっと簡単なもの、だなんて信じていたかったのかもしれない。同じだと思いたかったのは半分で残りの半分は同じだとは決して思いたくなかった。世間体からして一般論で正しくて、そんな彼が少し狡いと思っていたのだ。思っていたかった、俺とは違うと、俺はもっと。
「……んな訳ねーのか」
 お互い相当厄介なのだ。けれど仲間も守るべき相手も多い彼は其れ相応に大変なのだ。考えたくもないけどひょっとしたらハンディキャップはずっと。
「――ああ、くそっ」
 やっぱり手なんて貸さなければ良かった。ムカつく厄介な好敵手だと、名探偵のことをそうとだけ考えていられる距離が良かった。
 知りたくなんかなかった。
 光の中を駆け抜けるくせに俺と同じくらい闇に追いかけられてるなんて。その中に目的があるなんて。その癖に自身は未だ光の中にいるなんて、思ってたよりずっとずっと狡いじゃないか。
 正反対でもなく僅差の世界があんなに眩しいなんて。


 まだまだ視界の隅に残るあの小さな背中を少し見やる。月夜を越えて光り注ぐのは綺麗な朝日。やはり自分よりも彼に似合っているようだった。
 その衝動のままにため息を吐く。
 それが何から来るものかだったかなんて分かりたくも知りたくも無いけれど。

すれ違う世界僅差5度