疲れきった身体をなんとか動かしてコナンは歩いていた。頭には包帯が巻かれ頬には絆創膏が張られ、もう満身創痍といってよい。
「お疲れさん。傷だらけやな、自分」
「いや、傷は大体ふさがってる。包帯も取っちまっても構わねーくらいだ」
 手当てが大袈裟なんだと付け足せば、頭上から呆れを表したようなため息が落ちる。
「それは大袈裟って言わへん。飛行船の上で無茶しよってからに」
「しゃーねーだろ」
 海上保安庁に連絡をしてもらい、先ほどまで乗っていた空を泳ぐ巨大な船はなんとか地上に降りてくれた。流石鈴木財閥、あんな銃撃戦があっても造りが半端ないらしくそんなに損傷はなかった。もちろん、内装はぐちゃぐちゃで、その原因の半分程度はコナン本人によるものなのだが。
 そうして船から降りればすぐに服部を発見できた。どうやら前々から言っていたお好み焼きの話題を持ってきたらしい。尤も、前の事件から服部には手伝ってもらったこともあるし、なによりお好み焼きを食べさせてくれるというのだ。別段断る理由もないと、そのまま服部の家へ向かっているところだった。

 事情聴取はまた後でとのことだったが、パトカーで送ってくれるという申し出を丁重に断った。なにより緊張やら困惑やらで精神的に疲れている蘭や子供たちを優先させてくれとコナンが申し出たからだ。因みににやにやしながら提案してきた服部のおんぶも即効で却下した。骨折しているのなら渋々受けることもあるが、外見はともかく思考回路は健全な男子高校生だ、全く勘弁してほしい。


 完全に陽がくれた道はそれでも街灯によって明るい。そんな中で隣を歩く服部は、辺りを見渡しながら思い出したように声を上げた。
「せや、あの佐藤っちゅー刑事はん、おもろいこと言っとったで」
「は? 佐藤刑事が?」
「飛行機ん中でな、工藤が怪盗キッドやないんかって聞いてきたんや。なんでやろ?」
「…………」
 今、最も聞きたくない名にコナンはぴたりと足を止めた。一度小さく息を吐いて歩き出しながら、あまり良くなかった機嫌は急降下した。睨み付けるように服部と目を合わせる。
 工藤、を指すのは“江戸川コナン”ではなく“工藤新一”だろう。理由は考えるまでもなかった。
「工藤新一に怪盗キッドが化けたからだ」
「なんでわざわざ工藤に?」
「……俺が頼んだ」
 渋々ながらも言ってのけると、服部はほぉ、と意外そうな声を上げる。それもそうだろうと、割愛しながらも説明を加える。
「飛行船から投げ出されたとき、キッドがハンググライダーで俺を助けたんだよ。んでちょうどオメーと話してるときに警視庁のヘリを見つけて、俺が目暮警部に連絡して、キッドに変装してもらって飛行船に戻ったって訳だ」
 飛行船から投げ出されたときは驚いたが、それでもなんとか助かる方法を思案していたのは確かだ。けれどすぐに浮かんだのは海面に身体を打ち付けないように圧縮されたサッカーボールを最大限まで大きくして、前にからくり屋敷でやったようにクッションにする方法くらいだ。海面直前に広げるべきだろうかと考えながら一か八かを覚悟していたので、助けられて有難いことはもちろん有難い。

 一応状況を理解したらしい服部は引きつったような笑みを浮かべる。
「ホンマ、ええ根性しとるわ、自分……使える奴は怪盗でも使うんか」
「あん時はまだ感染菌である可能性もあったし、ともかく蘭たちのところに戻らねーと始まらねーだろ」
「せやけど……しっかし、よう助けてくれたなキッド、仲ええんか?」
「んな訳ねーだろ! あんなこそ泥となんで俺が」
 ぶつぶつと続ける声は不満を露にしていて、その低い声はとても小学一年生のものとは思えない。尤も服部はコナンを小学生として扱ったことなど、からかう以外にはそれこそ初対面以来殆どないので別段気にも留めなかったが。
「なんや、助けてもろて借り作ったんが嫌なんか?」
「そうじゃねー。そんなんはどうでもいいんだよ。一応有難いとは思って――あ、やべ」
 何かを思い出したらしいコナンに、服部は不思議そうに首を傾げた。
「そういや、俺キッドに礼言ってねーや」
「は?」
 助けてくれたのは事実で、有難かったのも事実だ。例え相手がそのことに関して何も言わなくても、相手がどれほどムカつく気障な犯罪者だとしてもだ。
 けれど彼になにも伝えていないことを思い出してコナンは顔を歪ませた。何しろこういうのはタイミングが重要なのだ。もう今更遅いだろう、そもそも何処にいるかも分からないのだけれど。
「いや、だってよ。あの後すぐに別行動して、俺はテロリスト捕まえてたしアイツは……何してたか知らねーけど」
 傍観者を決め込んでいただろうあの白い怪盗を思い出して、次いで嫌な光景も鮮明に思い起こしてしまった。
「俺だって言おうと思ったんだけどよ……キッドと蘭がいないのに気付いて……」
 そう、それからだ。謝礼なんてものを一切忘れてしまったのは。

 結局何をキッドにされたのかコナンは教えてもらえず、それが原因で先ほどから機嫌が悪いと言っても過言ではなかった。
 ――だから、新一が絶対にやらないことよ!
(俺が絶対にやらないこと? なんだそれ)
 考えるにしても判断材料が少なすぎる。
 そもそもなんでキッドに何をされた、という質問で、“新一”という名前が出てくるのか。それにコナンをまじまじと見た後に、顔を紅くして言い放った「好きだからじゃない」というのも気にかかる。とはいえ園子にすら告げていなさそうであり、また事件が解決してから何度かこの疑問点を解消しようとはしていたのだが、結局答えは出そうもない。
 こればかりは迷宮なしの名探偵だからと雖も解けそうもない。

「なんや、あの姉ちゃんなんかされたんか?」
「んなの俺が聞きてー…………うおっ」
 会話の最中に、バイブ音がしてコナンはズボンのポケットから携帯を取り出す。
「あ、蘭からだ。服部ちょっと黙っとけよ」
「分かっとるって」
 この携帯は工藤新一用だ。「変声機、変声機」と言いながら、ポケットから蝶ネクタイを探し当てて通話ボタンを押す。


「よぉ蘭、今日園子ん家の飛行船乗らしてもらったんだろ、事件あったみてーだし大丈夫か?」
「うん。もう大丈夫だけど……なんで事件があったなんて新一が知ってるのよ?」
「っ、だ、だってほら。ニュースも新聞もそればっかりだから、分かったんだよ」
「あ、そっか。じゃ、新一心配してくれたんだ?」
「べ、別にそうじゃねーけどよ。んでなんか用事か?」
「大したことじゃないんだけど……新一は、その、泥棒、なんてしてないわよね?」
「おい。探偵の俺が泥棒なんてする訳ねーだろ。一体大体なんでそんな話になるんだよ」
「今日ね、もしかしてキッドは新一なんじゃないかって思っちゃったの、だから」
「はぁ!? バ、バーロー! 何考えてんだオメーは!」
「そ、そんなに怒鳴ることないじゃない! もしかしてって言ったでしょ!」
「だからってよ、そんな妙な事普通考え付くか?」
「し、しょうがないじゃない。……誰かさんが事件にかまけて帰って来れないんだから」
「う……そ、それはそうだけど……」
「でも良かった、新一じゃなくて! そうよね、新一が泥棒なんてするはずないもんね」
「お、おお。……と、とにかく俺が怪盗キッドなんてこと何があってもありえねーからな!」



 その後、二、三回会話を重ねて電話を切ると、ぶはっ、と思い切り息を吐き出した音が聞こえた。
 睨みながら視線をずらすと、隣から声を押し殺したように前屈みになって震えている人物と目が合った。もう虫の息で、笑い転げるのを必死に抑えているようだった。
「笑いすぎだ!」
 服部に聞こえたのはコナンの言葉だけだったが、例え蘭側の音声が聞こえなくとも、最後辺りの叫び声が決定打だった。服部は腰を下ろしたまま、息を整えながらこちらを覗き込んでくる。
「せ、せやかて……あの姉ちゃんまで間違える、とか……お、お前ホンマはキッドなんとちゃうか?」
「服部、オメーな……」
「工藤がキッド……工藤が……っく、おもろすぎるで……それ……っ! し、白い服着て、シルクハットし……っあははっ、なんやそれ……っ! に、似合うんとちゃうか? 元に戻ったら、いっぺんやってみ……っ」
「うるせーよ! 似合ってたまるか!」
 佐藤刑事の時は然程考えもしなかっただろうが、どこかでスイッチが入ってしまったらしい。きっと工藤新一が怪盗キッドの格好をしている姿を思い浮かべているだろう服部を見ないようにして、コナンは携帯を元の位置に戻しながら、足元にあった適度な石を小さく蹴飛ばす。
「あ、あの姉ちゃんも間違えることあるんやな。記憶喪失の偽モンだって見抜きよったのに。なんでそう思たんやろ?」
「んなの、こっちが聞きてーよ」
 コナンは拗ねたような口調になり、口を突き出すように憮然としていると、隣では、くく、とまだ息を整えている。
「さすが世紀の怪盗や。工藤そっくりやったんとちゃうか? ……俺も見てみたかったもんや」
 一通り爆笑しつくしたのか、なんとか正常な呼吸を取り戻したらしい服部は、それでも笑いながらコナンを見つめている。
「変な感心してんじゃねぇ! っくそ、ふざけやがって。何度俺になればいい気だ、あの野郎……」
 そういえば、工藤新一に変装してくれと頼んだときに“また”と零していた。あれは前回の事件のことではなかったのか。そう推測してそろそろ機嫌は底辺へと向かっていく。

 自分ではない誰かが自分の真似をしているというのは酷く気持ち悪いものだ。状況が状況なだけに自分は絶対にあの姿になれないという現実を突きつけられて、ましてや蘭と工藤新一として話している場面なんて見たくもないが、勝手に会話をさせる訳にもいかない。大体どれだけこちらがそれを待ち望んでいると思っているのだ。
 しかも自分をからかうために工藤新一になっている気がしてならないのだけれど。

「キッドと工藤は似とんのとちゃうか? 真似するのが簡単なんやろ。それに工藤は他の奴と違て絶対に現れへんしなぁ」
 服部の冷静な分析によって、今度こそコナンは打ちひしがれた。自分の姿は鏡で見れば分かるけれど、性格や行動は自分発信で行われるものだから、ビデオなどの媒体でもなければ見直すこともない。だから小さくなった自分が、キッドの変装であると分かっていながらも“工藤新一”を見ると相当気分が悪くなるのだ。
 あれが他人から見た自分の姿だなんて何があっても信じたくない。
「なぁ……俺はあんな気障でふざけた野郎に見えるのか……?」
「自分のことはよう分からんってやつなんとちゃうか?」
「……」
 ぴしゃりと言われた言葉に憮然とした表情で返せば、また服部はにやにやとこちらを伺っている。
 その状況も蘭の発言も、なによりあの白い怪盗の行動に心底腹が立つ。第一、結局蘭に何をしたかを聞けていないのだ。状況を知っているコナンですら教えてもらえなかったのだから、新一の立場では確実に無理だろう。
 とすれば、解決策は只一つだけだ。
「あの野郎、次会ったらぜってー監獄にぶち込んでやる……!!」
 そうすれば蘭に何をしたかくらい聞きだせるだろう。音にして吐き出したのは八つ当たりが混ざったような、強い怒りだった。

 最近で最大の機嫌の悪さを何一つ隠さず歩く速度を上げていくコナンを見ながら、服部は苦笑を漏らす。結局、礼どころか借りを返すことすら忘れてしまっているだろう。本当に、幼馴染のこととなると全部吹っ飛んでしまうらしい。一度首を竦めて隣へと足を進める。
 服部平次の家はもう、すぐそこであった。

back to the drawing board.