満月を背に彼は一度首を傾げた。
 月に今しがた盗った宝石を翳してみてもなんら変化はなく、誰もいないのを承知で、けれどたとえ居たとしても周りに気付かれないほどの微かなため息を吐く。彼が必要としているのはただひとつだけだった。それを探し当てるということはどれだけ骨が折れることかは身をもって知っている。もう少し手がかりを掴めていたら手当たり次第こうして予告状を送ることもないのだけれど。
 とは言え今回の仕事は彼自ら予告状を差し出したわけではない。新聞を介しての挑戦状を受けてのことだった。こういったことはそう多くはないけれど、けれど少なくもない。
 唯一の宝石を見つけようとする行為は手探りだらけで、こうして場数を踏むしかないのだ。ほんのわずかな希望でもあればと売られた喧嘩は買った。それが遠回りでありながら今のところ一番手っ取り早い方法である。
 それにしても、先ほど彼が首を傾げた理由はそこではなかった。

 新聞を介しての挑戦状。そんな一般常識から大きく外れたものを差し出してくるのは、かの有名な鈴木財閥の相談役の手馴れた手段だった。何万人もの人が見る新聞一面を、ただ一人に向けた呼び出し状として使用するのにどれだけ金銭がかかるのかはよく分からない。自分が使うわけもないので調べる気がないだけなのだけれど。
 それよりも彼が不思議に思うのは、どうしてこんなにうまく宝石を盗めたかというところにあり、酷く物足りないと思うほどだった。やはりおかしい、これは非常事態とも言っていい。

 何故なら鈴木相談役が出てくる場はいつもの数倍状況が厳しく一通り考えた計画を変更するなんてざらである。それは鈴木財閥のセキュリティのせいでも、いつも追ってくる警部の力でも、今日はいなかったクラスメイトの探偵のせいでもなかった。今となっては相談役が挑戦状を自分に叩きつけた瞬間にメディアが取材に向かってしまうくらいの人物のお陰である。
(おっかしいなぁ……)
 音には出さずに口の中で反芻させた感想は紛れもなく本心だ。ひょっとしてこれは罠かとすら思うが宝石は本物だったのだから罠であるはずがない。けれど自分が宝石を手にする直前や直後に怪盗の名前を呼んで、新聞で一面を飾った表情とはまるで違った、あの狡猾で不適な笑みを漏らしてくる人物がいるはずなのに。

 その人物の風貌は明らかに子供である。けれどしかし内包している雰囲気は比べ物にならない鋭利さを伴っていた。
 何しろサッカーボールを蹴り上げて公衆電話は壊すわ、空中を舞っていた怪盗のモノクルを掠め取るわ、麻酔銃でこちらを淡々と狙ってくるわ。初めて少年の彼に対峙したときだって、誰も気付かなかった変装に只一人気付いて、たった一人で怪盗に対面したときの台詞回しといったら。小学生相手に背筋が凍った経験なんて初めてだ。
 万が一でも彼を只の小学生だなんて形容した日には、世界中にいる只の小学生に大いにブーイングを喰らうだろう。


 自分を捕まえようと躍起になる警部より何百倍も冷静で、また怪盗専門と自称する探偵よりも何倍かごまかしのきかない少年が、本来の姿でないと知ったのはいつのことだったか。
 未だそれを実証できる術はないし、こちらは怪盗であり探偵ではないのだから証拠なんてものを見つけ出すつもりもなかったけれど、彼に関するその仮定は確実であり確定事項であり彼が好きな、それこそ真実なのだ。その真実は怪盗からすればそれは喜ばしい事実であった。なにしろ世紀の大怪盗、平成のアルセーヌ・ルパンと揶揄される自分がひどく手古摺る相手が二人もいたのでは沽券にかかわる。しかも一人は小学生だなんて笑い話にもならないのだ。その二人が同一人物であるというのはある意味有難いものだ。自分を窮地に追い込む存在は出来るなら一人だっていらないけれど、複数いるのは絶対に願い下げだ。

 あの少年は怪盗が彼の正体を知っていることに関してたいした感慨もないらしく、自分の幼馴染に似た彼女や、その父親である探偵の前とはまったく違った口調で怪盗と対峙する。発する言葉の端々や彼の眼光、全身の空気、何よりもその智謀といい、多分彼は批評家としては役不足なのだ。そのため怪盗は探偵という存在認識を変えなければならなくなってしまった。だからといって怪盗が知るその他の探偵に関しての認識を変えるつもりはないけれど。
 彼が現れた現場はいつだって面倒で時間がかかり、油断した瞬間状況が容易に暗転してしまう。こちらも全身全霊で挑まなければならないのは必死だ。尤も、たまにはこちらの予測を反する行動をしてくれるのが楽しいと感じた瞬間がないとも言わない。
 もちろん毎回そんな状況は勘弁してほしいのだけれど、幸い彼が現れるのは大抵予想がついた。だからこそ今回だって様々な状況を予想して色々用意してきたというのに。こんなに簡単に盗めたとあっては肩透かしをくらった気も否めない。あの準備期間を返せと悪態をつきたくもなってしまう。おかげで今日はちょっとばかり眠いのだ。それにしたってやっぱりおかしい。さっき見たときには毛利探偵もその娘もいたはずなのだけれど。
 風邪でも引いたのだろうか、と思いつつも理由はどうでもいいか、と一人結論付けた。心配するほど仲が良いわけでは決してなかった。
 中森警部の怪盗の名を呼んで叫んだ声が微かに聞こえて彼はハングライダーを広げた。仕事は早く簡単なほうがいいに決まっている。目的でない宝石なら尚更のことだ。宝石を返す手立てを考えながら満月を見返した。この光に照らして赤くなる石を手にできるのはいつだろうか。


 ハングライダーで少々離れた場所で変装を解こうと空中を飛んでいると、見慣れた赤い光が見えた。一瞬、自分を追いかけているのだろうかとぎょっとしたが、夜目に慣れた目で凝らしてみると捜査一課のパトカーだったらしい。近くの比較的低いビルに止まって変装を解いて何の気なしにそれを見届ける。
 なるほど、と怪盗は納得する。今回の仕事が滞りなくいった理由がそれはもうはっきり分かってしまったのだ。捜査一課のパトカーのそばに怪盗が唯一認める名探偵の姿があったのだから。
 探偵が事件を呼ぶのか、事件が探偵を呼ぶのか定かではないが、なにしろあの名探偵のそばには事件がよくよく転がっている。
 完全に変装を解いた怪盗は、もう只の高校生の黒羽快斗である。ジーパンに黒いパーカーで黒尽くしの服装はきっと誰にも見られることはないだろう。そうして黄色のテープを張り巡らしたところを見下ろす。気分は宛ら野次馬に近いものだった。

「うわー、流石名探偵。手馴れてるなぁ。あんな小学生普通いねぇぞ」

 よくテレビドラマで見る残忍な死体とはいかなくてもそれでも死体は死体である。通常の日常生活を送っている人間にとって殺された死体というのは人生に一度お目にかかるかかからないか程度のものだ。ブルーシートがかけられているが、それでも殺人という状況だけでも口を押さえ早足になる通行人だっているものだ。
 そんな中、彼は規制線の狭間に平然と立っている。果たして関係者なのかそうでないのかはここからでは分からない。上空から見れば呆然と立っているようにも取れるがそんな訳はないことくらい彼を細かく観察せずとも理解できた。年齢一桁の彼の冷静を過ぎたような佇まいに思わず快斗は苦笑を零す。
 それはそれほど難解な事件でもなかったらしい。何度か少年が刑事と会話をした後、すぐにパトカーは消えてしまった。きっといつものように怪盗顔負けの演技で事件を解決したのだろう。変装は絶対にこちらが勝っていると自負しているが、子供の演技となればもしかしたらあちらが上かもしれない。何しろ向こうには実績があるのだから。
 けれど事件が解決したらしいのに彼は先ほどまで在った遺体のそばから離れはしなかった。不思議に思って快斗は少し身を乗り出した。さすがに目がいいといっても何を話しているかは分からないし、表情だって読み取ることができない。
 名探偵を発見できたのは、あまりに自然に事故現場にいたからだ。それは不自然すぎる自然さだった。まるで彼の存在そのもののように。
「――え?」
 瞬間、顔がこちらに向けられる。
 どくり、と心臓が跳ね上がる。まさか気付いたのだろうか。彼は本当に油断ならない。
 背後に煌く満月の光で少し彼の表情が見えた。眼鏡の奥から見える鋭くけれど冷たいだけではない双眸はまるで快斗を捕らえているかのようだった。
(落ち着けって、俺いまキッドじゃねぇし、そもそも全身黒いから絶対見えないはず)
 何度か自分に言い聞かせている間に彼はすぐに顔を伏せてしまい、そのまま先ほど自分が仕事を終えたビルへと持っていたスケボーに乗ってあっという間に去って行ってしまった。
 やはり気付かれてはいなかったらしい。自分と対峙するときの彼の目はそれこそお前は犯罪者であり、何一つ見逃さないと言い切られているような鋭い眼光であり、今回の目はそれとは少々違っていた。物憂げな目をしていたように思える。
 兎にも角にもバレなかったことに安堵し、快斗は小さく息を吐いてビルから降りて通常の道路に出た。

 快斗のよく知る探偵である白馬探が二課の怪盗キッド専門の探偵であるといって憚らないように、彼は一課専門といってよい。罪の重さを推し量ることは出来ないし、名探偵からすればこちらもただの犯罪者だと明言されているが、それでも人を殺すというものが何より許せないと彼が思っていることくらい快斗は知っている。だから同時に事件が発生したとき、名探偵がどちらをとるかなど分かりきっていた。きっと自分の大切にしているだろう幼馴染のそばを離れても事件性の高いほうへ向かったというところだろうか。
 なるほどなるほど、実に彼らしい。名探偵が名探偵たる所以だと、快斗は笑みを深くする。


 怪盗キッドという存在は世界的に見ても知名度が高くなっている。応援しているファンがいるのもテレビやら現場やら新聞やらで知っている。それは単純に嬉しい。綺麗で可愛い女性から格好いいと言われれば男として嬉しくないわけがない。
 けれどいくら盛大にショーをして観客を喜ばせてみせても、元々の持ち主に返そうとしても盗みは盗みで怪盗は怪盗だ。名探偵が言うようにこれはただの犯罪行為に他ならない。もちろんそれを知った上でも成し遂げたいことがあるのだから辞めようとも思わないけれど、たまに俺を応援するのはどうなんだろうか、と考えてしまうことが全く無い訳ではなかった。だから自分を平然と泥棒といってくれるのは正直カチンと来ながらもどこかで納得する自分だって居るのだ。キッドが大嫌いだと公言する幼馴染と同様にそれは必要な意見だと思う。
 もちろん捕まる気はない。宝石を奪還されたことは許容範囲としても自らがお縄につくなんてあり得ない、相手がたとえ名探偵でどれだけ追い詰められようと、だ。
 けれど毎回毎回望み薄な宝石を月にかざす行為を繰り返していると、たまにはスリルくらいあってもいいじゃないかとも考えてしまう。
 そう、たとえば自分で考えた計画を練り直さなければいけないとき。
 最悪だと考えながらも、そうこなくては、と不意に笑ってしまうのだ。

 同じことの繰り返しは目的と手段が一緒くたにしていきがちだ。生憎自分はそこまで馬鹿でもなければそんな程度で忘れてしまうほどの曖昧な意思で怪盗をしているわけではないけれど、たまには名探偵のように先を読んだような出来事が在ってもいいのではないかと考えてしまう。
 簡単に事が進むのはある種慢心を生む。自分が狙う先に、或いは前に、常識では考えられない組織があるのを知っている。危ない橋を渡ることもあるだろう、いつかの時のためにこれは打ってつけの予行演習だ、なんて名探偵に言ったら即効でサッカーボールを蹴り上げて麻酔銃を撃たれるだろうけど。
 それに名探偵だってきっと何か目的があるのは調べずとも予想がつく。体が小さくなっているのだからよほどの状況だろう。怪盗は犯罪者で光を浴びはしない、けれど子供の姿である彼もまた色々なハンディがあるのは明白だった。自分自身の問題が解決されているわけではないから、他のことをそう気にはしていないけれど、対極の立場のくせに色々と似ているのかもしれないと少し思ってしまった。もちろん、馴れ合うつもりも仲良くする気も今のところは毛頭ない。
「ま。今日は不戦勝ってことで」
 小さく呟いて見せて快斗はそのまま自分の岐路へと足を運ぶ。だって彼とは対峙して、相手が何を考えているのだろうかと考えて推測して、そうして会い見えるのが今のところ楽しいのだから。
 名探偵が「東の高校生探偵工藤新一」に戻って快斗と名探偵の目的が終わって、そうして普通に知り合えたらそれはそれで楽しいのかもしれない。きっと名探偵は現行犯以外で捕まえようとすることなんてないのだ。彼の知り合いを助けたらその礼として見逃してやる、と高圧的ながらも言って来る人物なのだから。


 でも欲をいうなら当分このままがいいと思えた。彼が工藤新一としてキッドを止めただなんて新聞を賑わせた日には、自分の幼馴染が嬉しそうにはしゃぐだろう。快斗の風貌が彼に似ているのにも関わらず彼ばかりを「格好いい」だの「会ってみたい」だの言われたら、聊か不愉快な気分になるのは想像に硬かった。だったらそれよりかは小学生が紙面に賑わせ、それを見て笑っている彼女の姿を見ているほうがまだ納得できるのだ。そういった意味ではもしかしたら名探偵には子供のままで居てくれた方が自分としては嬉しいのかもしれない。
 そこまで考えて自分は一体誰にやきもちを焼いているのだと、自嘲しながら彼のように満月を見上げてみた。対極の彼が何を思っていたかなんて分からないし、分かろうとも思わないけれど気分を切り替えるのはちょうどいいくらいの光なのかもしれない。

 明日、キッドキラーといわれるあの名探偵の新聞が見られなくて、いつもより数倍機嫌が悪くなっているだろう幼馴染の彼女を思い浮かべて、今度こそ快斗は彼自身らしい嬉しそうな笑みを零した。

対極的類似者へ