確か昨日は部活で夜近くまでサッカーをして、疲れた体を引きずって家に帰ったから、食事と風呂を済ませてすぐに爆睡して、今日は適当な時間に起きるはずだったのだけれど、隣の阿笠邸から恐ろしいほどの爆音が轟いたせいで朝から飛び起きてしまった。原因は明らかに博士が作り出した失敗作だろうことは想像に難い。
 何はともあれそのせいで目が冴えてしまったので一階に行って朝食を済ませて、たいした宿題も無かったので読みかけの小説に手を伸ばして、リビングで読みふけっていると時間はあっという間に過ぎて、時刻は昼前を指していた。
 とんとん、と後方から音が聞こえて振り返ると父さんが清々しい顔をしている。多分原稿が終わったんだろう、そういえば昨日は出版社の人らしき靴が玄関に置かれていた。

 俺の父親は日本屈指の推理小説家であるのはいいとして、その頭脳を使って締め切りから逃げ出すことを真剣に考えているからとてつもなく性質が悪い。そんな巧妙な逃走ルートを考える暇があるならさっさと続きを考えればいいとは、小学生くらいから思うことである。
 そうこう考えているうちにキッチンではいい匂いがしていたので父さんに続いて母さんがいる場所へと足を運んだ。

「あのね、新一に言っておかないといけないことがあるんだけど」

 母さんにそう切り出されたのは昼食を終える直前だった。食べかけたものをゆっくり飲み込んで母さんを一瞥したあと、父さんに目線を向ける。けれど二人の顔を見てもこれからの会話は想像できそうもなかった。
 よくある小説の離婚話の切り口であってもそれはまず無かった。二人は鬱陶しいくらい仲が良く、喧嘩はしたとしても内容は馬鹿馬鹿しい痴話喧嘩もいいところだ。
 それに息子の俺が言うのもなんだが、うちの両親は一般的とはかけ離れている。そんな二人が改まって話す内容は一体なんだろうかと人知れず緊張しながらも首を傾げた。
「な……なんだよ? 母さんも父さんも改まって」
「実はLAにちょっと行こうと思って、新ちゃんに言ってなかったでしょ」
「へ? それがどーしたんだよ、ロスだろ? 何を今更重々しく」

 緊張した分を返してほしいくらいにその内容は俺の家にとって普通すぎる。なにしろロスに二人が行くなんて日常茶飯事。よく原稿の締め切りやらなんやらで逃げ出すときにだって行くくらいなのだ。近所だと思っているとしか思えない。まさか俺で遊ぼうとしているのかと更に首を傾げる。
「おや、そんな簡単に言っていいのかな?」
「なんなんだよ父さん、まさかまた締め切りから逃げ出す気じゃねーだろうな?」
 俺がそれなりの年になってからというもの、締め切りから逃げ出した父親の所在を探ろうと母さんだけじゃなく俺にまで編集者が問い詰めてくるようになっていた。一度なんて学校にまで顔を出したことすらあった。全く勘弁してほしい。
 そうため息を吐くとあまりにも深刻そうな二人の表情が一変して嬉しそうなものへと変わるので若干顔が引きつる。心底いい予感がしない。

「今回は取材も兼ねてだがね」
「んで今回は何日行くんだよ。一週間? まさか一ヶ月とかじゃねーだろーな」
「いやいや、そうじゃない」
「そうよ新ちゃん。何日じゃなくて何年、かしら」
「ふーん……何年ねぇ……そりゃ長……――はあああ!? って、まじかよ!?」

 食後の飲み物を口に入れようとした瞬間に発した母さんの一言で思わず座っていた椅子から立ち上がる。ついでに両手で机を思いっきり叩いてしまって少し痛かったが、それどころじゃない。呆然と二人を見ると父さんがやれやれと困ったように笑っている。

「そんなに慌てるな。ホームズのような探偵を目指すならもっと冷静さを保たなければ」
「っ、父さん、今はそこじゃなくて! あっちにまた移住する気かよ!?」
「そうねー、それもいいかもしれないわねーって最近優作と話してたのよ。ねー」
「ああ」

 頷き合いながら、相変わらず突拍子とかそういったものの塊のような両親を目の前に俺は頭を抱える。脱力しながら先に座っていた椅子に腰掛ける。
 どうしようもこうしようも、こう決めて言ってきたということは、覆す気なんて更々ないことは明白だった。それにしてももう少し深刻そうに話せばいいものを、すでに明日の食事内容でも決めるかのように軽い会話へと変わっていく。

「そうそう、やっぱりロスもいいところじゃない。優作の出版パーティもあるし、久々に住んでみようかなーって思って」
「住んでみようかな、って……おいおい」
「どうした新一、長い間一人暮らしになるのがそんなに寂しいか?」
「いや寂しいとかそういう問題じゃねーっつー……あれ、俺も行くんじゃねーの?」
 てっきりそういうものだと思っていたので、父さんの一言で項垂れていた顔を二人に顔を向ける。なにより自分はまだ中学を卒業したばかりだ。一般的に考えて両親についていくと言うのが通常だろうというのに。
「だって新ちゃん、折角レギュラーなのに転校しちゃうなんて可哀想でしょ? それに優作が」
「新一ももう高校生だからな。数年くらい一人暮らしできるだろう? それとも、本当に日本を離れてしまっていいのかな? ん?」
「…………」

 酷く面白そうな表情で問いかける父さんを憮然として見つめる。こちらのことはお見通しらしく、それはきっとその通りなのだけれど認めるのは流石に癪だ。色々思うところはあるが、それにしたって高校生から生家に一人暮らしというのは親が推奨していいものだろうか。それになにより軽いながらも現実的にかなり困る問題もある。
「えっと……飯は?」
「あら。いつも私達がロス行くときに食事に困ってるようには見えなかったじゃない。幸せ者ねー新ちゃん」
 明らかに近くに住んでいる蘭を思い浮かべて笑う母さんに少しふて腐れながら顔を背けた。
「あれは……数日だったから頼めたんだっつの」
 一週間程度なら作り置きがなくなっても何日かはコンビニや出前でなんとかなるし、何より頼もしい幼馴染がいるのだ。こちらが言わずとも作ってくれたりする非常に有難い人物が。
 ぼんやりとそれを思い出しながら呟いた言葉はそれでも両親には聞こえていたらしく、母さんはウインクをひとつしながら指を一本立てて俺の目の前に差し出す。

「阿笠博士にも言ってあるし大丈夫大丈夫」
「……博士、驚いてたんじゃねーの?」
「そうでもないわよ? 意気揚々と「それじゃ、これから新一が朝必ず起きられるような目覚まし時計を発明してやろうかの」って言ってたわ。良かったわね、新ちゃん」
 よし、とりあえず今日の夕方にでも博士の家に行って断ってこよう。下手したら朝から軽い怪我をしかねない。早急に半笑いで予定を立てると、母さんは指先を俺の額に軽く突いて嬉しそうに笑って続ける。
「そうだ。これを機に料理頑張ってみればどう? 最近は男の子だって料理ができたほうが女は喜ぶものよ」
「…………」
「それとも私達とロスに行くつもりかしら? 私は新ちゃんと離れたいわけじゃないからそれもいいのよ?」
「……う」

 俺が言葉に詰まったのを見て父さんは企んだような笑みを浮かべ、母さんは少しだけ詰まらなさそうな、けれど確信していたらしい笑みを浮かべた。
「よし、それじゃ決まりね」
 語尾にハートマークでもついていそうな言葉を発しながら、そのまま母さんは片付けを始め出してしまった。父さんは食後のコーヒーを飲み始めた。それらで分かるのは、もう話は終わったということだ。
 呆然とする俺だったが、それでもこの結末は二人にとって予想範囲内の計画通りだったに違いないことは理解できた。
 ああったく、相変わらず当分適いそうも無い二人だ。





 それからというもの、日本を名残惜しむかのようにショッピングを始めた母さんの相手をしたり(どうせ俺の学校行事のたびに帰ってくるくせに)、部活に勤しんでいたりしていたせいで、蘭への報告をすっかり忘れてしまっていた。
 結局、帝丹高校の校門前で「どうして教えてくれなかったのよ新一の馬鹿!」と本気で怒られてしまい(蘭は何かの間違いで最初は俺も転校すると思ったらしい、つかそんなに怒鳴るくらいに母さんと仲がいいなんて初めて知ったぞ、俺)周りの注目を浴びる羽目になったのは約一週間後のことだった。

to lose is to win ?