顔を見合わせて二十分。
 関西でそれなりに有名である彼の高校生探偵はそれは深いため息を吐いた。表情は疲れきっている。いつかの密室殺人トリックの謎を解明し終わったときよりも遥かに疲れていた。
 その原因として挙げられるのは自分ただ一人だけである。それを重々分かっているからこそ彼は怒りを通り越して、いっそ殺意のほうが生易しい禍々しい幼馴染のオーラに戦々恐々しながらもその隣を歩いている。

 遅れることは多々あったが待ち合わせをすっぽかすことはあまりない。けれど今回、それを当てはめていいのかすら分からないほど待ちぼうけを食らわせたのはもちろん自分自身だ。

 いつでも喜怒哀楽と表情筋が直結しているような幼馴染は遅れて行けば当然怒るし、大声で怒鳴られたり怒られたりもすることは日常茶飯事である。お互い口は達者な方なので喧嘩となれば派手に声を荒げることだってある。
「……おーい」
 遠くの人を呼びかけるように声を上げて見せても、彼女、遠山和葉はぴくりともせず無言で歩いている。確実に声が聞こえただろう距離だから、無視を決め込んでいるのだろう。
 さすがに謝り倒してそろそろ三十分を過ぎるからせめて反応が欲しい。
「…………」
「ほんまに悪かったって、ちょい急用ができてしもて」
「…………さよか」
 小さいものだとしても反応が返ってきたことに安心したが、やはり先ほどと変わらない威圧感がとめどなく襲ってくる。合気道をやっているせいか、それとも父親譲りか。愉快犯程度の容疑者ならこのオーラだけで自白させられそうだと思う。
「アンタ、私がどれだけ待ってたか分かってん? 連絡くらいできるやろ?」
「い、いやぁ……ちょっと殺人事件に巻き込まれてなぁ、謎解いとったらすっかり」
 目線を斜め上にして頭をかいて和葉の様子を伺う、どう考えても非はこちらにあるのだ。さらに情けないことにあの時コナンが和葉のことを言い出さなければ本当に気付かなかった可能性が高かったのだ。
 凍りついた空気は和葉が息を吸ったことで若干揺らぐ。あ、まずい、と思わず目を瞑った。
「ええ加減にしとき! 待ち合わせしとらんかったら別に連絡できんかて構わへんし、しゃーない思うけど、アンタが梅田で待っときゆーたんやろ!? 待ち合わせ遅れたら平次かて怒るやろ!! しかも遅刻時間考えてや、四時間やで四時間!! ほんまにアンタはぁ!!」
「……わ、悪かった……」
 至近距離でかつ大声で叫ばれて、頭がぐあんぐあんする。けれど内心、こうまで怒られるほうがまだいい。黙ったままの怒りは消化しきれず増築されていきそうで、またそのような彼女はよく知らないから対処方法も分からない。
 とりあえずのところ言いたいことは言ったらしく、和葉はくるりと身を翻した。それに習うように歩き出せば、前よりも少し、ほんの微かに和らいだ空気に今度こそ彼は心底安堵の表情を浮かべた。


「ほんでどこ行ってたん? 事件やったんやろ」
「え、ああ……その……と、東京や」
「はぁ?」
 まるで幽霊を見るかのように和葉は目を瞬いた。歩く非常識を見つめて盛大にため息を吐いた。
「なにしに? ……蘭ちゃんにでも会うてきたん?」
「ちゃうわ、俺は工藤――、あ」
 一人の名前を出した直後、しまったと口を押さえるがそれはもう無意味な行為である。
 いい加減彼の名前を、今公表できる名前で呼べられたらいいのだが「コナン」という単語はどうにも言い辛い。コナン君、だなんて言った日には気持ち悪くて仕方ない。だから本来の名前を何度も大声で呼んでしまってどれだけ非難めいた顔をされたかは数え切れないが、たとえ小学生の姿であったとしても江戸川コナンとランドセルに書かれていても誰がどんな名前で呼ぼうと、彼にとっては“東の高校生探偵工藤新一”であった。
「え!? 工藤君に会うたん? じゃ、蘭ちゃん」
「ちゃうちゃう、頼まれただけや、別に会うてへん。せやからあの姉ちゃんに変なこと言うなや」
 ぱっと嬉しそうに一瞬でも笑顔を作った和葉に静止をかける。
 今からコナンと変えるのは逆に変になってしまうだろうし、なにも嘘ではないから大丈夫だ、と思いそう付け足した。尤も、彼は相談事など早々してこないだろうし、今回も彼を心配する隣人からの要請だったのだけれど。
「工藤君、平次になんの用やったん? 自分で行けばええやろ、東京なんやし」
「ま、工藤にはごっつい事件抱えてるみたいやし、しゃーないやんけ」
 どうにか質問を軽くかわして、つい棘が見えるような口調の和葉を見る。彼女の友達というポジションまできている毛利蘭のことを考えてのことだろうから別段咎めはしなかった。最初は仲が悪そうに見えたのに、唐突に仲良くなった後はそれこそ高校の中で仲のいい友達と同等かそれ以上に見える。女は謎だ、と彼は常々思う。
 けれど工藤新一を待っている彼女の事情は確かに知っているが、それ以上にコナンとして待たせている状況も知っているため非難などできない。
「……まぁ。それはええけど、平次。工藤君のパシリみたいやな」
「なんやて? 俺と工藤は親友やっちゅーに」
「へーへー、二回くらいしか会うてへんのに随分仲ええとは思うけど」
 呟いた言葉にぎくり、と顔を引きつらせた。確かに“工藤新一”とは初めて会った時と、帝丹高校の文化祭の二度だけだ。前置きに和葉にとっては、が付くけれど。
 さすがに人見知りをしない性分であってもそれだけでは仲良くはならないだろう。実際、二度なんて回数ではないくらいには顔を合わせている。もちろん和葉もだ。
「それは、そうや、電話しとるし、同じ探偵やし」
 もごもごしながら理由を言い繕う。間違ったことは言っていないはずだ。
 最初はライバル心を巻き散らして東京に向かったものだが、紆余曲折あって毛利探偵事務所に居候という形で住んでいるコナンが自分の目的の人物だと分かるのにそう時間はかからなかった。一夜で分からなかったのは、やはり通常考えて十七歳の身体が七歳になるというあまりにも非現実的な状況をうまく飲み込めなかったせいだろう。

 服部平次は学校に行けばそれなりに友達と喋り、つまらない授業を受け、剣道という部活に精を出している普通の男子高校生である。
 けれど彼はそれでも一般的とは違い、大阪府警本部長の息子であり、なにより彼自身が有名人であった。探偵、という名称を掲げた彼は知識量も通常の高校生を軽く超えるものであり、また大人ですら殆ど敵うことが難しいほどだった。もちろん、父親を除いて。
 同級生との雑談は楽しいが、知識という面において誰かとそれを共有することは難しかった。それこそアイドルなどの知識ならそれも可能であるが、殆どの場合彼は教える側に立つ。たとえば英語の発音ですらその辺の英語教師を遥かに凌いでしまう。
 その関係性に当てはまらない人物が一人、それが工藤新一である。
 会話は今までにないほどスムーズに行くことが多く、特に事件が絡めば大抵こちらの意図は測ってもらえるし、向こうの意見も測りとることができる。少しばかり悔しいのだが、自分が理解できているところは確実に向こうも分かりきっているし、自分ひとりで充分だと思えても二人の考えを合わせることでその推測はより強固なものとなり、その推理が真実をもたらす自信が増徴されることは確かだった。

「……あーあ、蘭ちゃんやっと工藤君と会えたかと思たのに」
(……毎日会うとるけどな)
 引きつるのを自覚しながら前を見据えた。もう完全に夜の時間帯だ。
「蘭ちゃんは偉いなぁ」
 正確な時間を腕時計で確認しながら、和葉の家まで送る最中、彼女はぽつりと呟いた。
 不思議そうに見つめると彼女はこちらを向く。ポニーテールの髪がひらりとよく動く。
「蘭ちゃんはもうずっと待っとんのやろ? 電話してくるゆうたって、たまにだけやろ? それなのにずっと待ってるんやで偉すぎるやん、私なら絶対考えられへん」
 和葉の発言は確かに、と思う。探偵事務所の彼女とあの男は自身がどう思うと形式的には幼馴染だ。関係性的には自分と隣を歩く和葉とのそれとなんら変わりはない。けれど自分は彼がいつだって彼女を第一においているのを知っており、彼女もまた彼をしっかり信じて待っていることを和葉経由で知っている。だからこそ全部バラしてしまえばいいとよく思うのだ。
 あの工藤優作に育てられたせいかは知らないが、彼の行動は不敵でかつ大胆であり、またそれ以上に気障である。きっと自分は絶対に使わないだろう台詞を平気で発する。高校の文化祭の演技を思い返し、ある意味一生敵わないだろうと思った。もちろんあんな役などやりたくもないし、それに関しては敵いたくもない。あれで彼女を「好きじゃねーよ」だなんてどの口が言うのかと帰りの新幹線で苦笑したのは記憶に新しい。どうせなら言いたいことを言ってしまえばいいのに、そうしたらあんな不用意に心配させることだってないのに。
(ま、当分無理やろうけど)
 真実を知っても結局心配させてしまうのだ。彼の常套句である「厄介な事件」はその言葉以上に厄介であり、通常考えられない難解っぷりなのだから。  一度、致命傷とも言うべき傷を負ったときに初めてと思うほどの気弱な声を聞いた。あれがきっと本心なのだろう。

 彼の身体を小さくした、黒ずくめと言われる組織に関して、色々協力をしてもらっているあの博士にすら何も言わなかったのは、そこに住んでいる彼と同じ状況の小さい彼女の身を案じてのことだろう。もちろん確証がないのに行動や発言をするなんて、根っからの探偵である彼がするはずはない。それにそれを探偵の性、なんて言ってしまえば自分も当てはまってしまう。事件があった瞬間にそれだけに集中して飛び出す気持ちもやはり知っていた。

 和葉が同じ女である彼女を心底心配するのと同様に、自分は彼を心配している。やはり探偵同士だからか、同性だからか、どこか通じることがあるのかもしれなかった。だからこそこの二つの心配を完璧に解決するには、その難解な事件を解決する他ない。さっさと解明できれば苦労はしないけれどあの男が手を焼いているのだ。他の誰がやっても時間がかかるのは明白だ。
 解決して元通りとはいかなくても、せめて東京に遊びに行ったときに大声で彼の名前を呼んで、怒られない状況になればどんなにいいことか。自分よりも遥かに表情を繕うことができ、また演技にも長けている彼が幼馴染の話をするときはいつだって表情を崩し、そうしてどれだけ心配しているか。彼女が関わるとき、彼はやっぱり自分と同じ普通な高校生であると思えるのだ。

「ま、あの姉ちゃんは工藤にはもったいないくらいや」
「そうやろ!?」
 和葉の漏らした発言に賛成の意で告げると大きいリアクションでこちらに詰め寄る。独り言のつもりだったのだけれど至近距離の彼女には完全に聞こえていたらしい。
「私が男やったらさっさと工藤君なんか忘れてしまい言うて自分のものにするところやで! って前にも似たようなこと蘭ちゃんに言うたけど可愛い顔してニコニコしてるだけやし。罪な男や」
「そういう意味では、羨ましいやっちゃな」
「えー? 平次、アンタひょっとしてアンタ蘭ちゃん狙っとんのー?」
「な、何アホなこと言うとんのやお前。そんな気微塵もあらへんわボケ」
 完全的外れな感想に思わず肩からぐったりと力を無くす。冗談でもそんなこと言った日にはサッカーボールを叩き込まれて痣となるかもしれない。酷く呆れてみせると、和葉は、さよか、といとも気にせずと話を続ける。きっと冗談だったのだろう。
「今度会うたとき、もういっぺん言ってやらんと。工藤君が帰ってきたときは一回くらい殴ったかて問題ないできっと。蘭ちゃんのことやから、やっぱり許してまうんやろうけど」
 自分と彼の幼馴染の武力というべき攻撃力を知っている服部からすれば、そんなことを全力でやってしまったら俺らは死ぬのではないかと結構真剣に考えている。サッカーボールや竹刀がなかったら、例え純粋に勝負をしても負けるのではないかと末恐ろしい考えが芽生えて思わず首を横に振った。


 いつの間にか和葉の家の近くまで来たらしい。なぁ、と唐突に隣の和葉を呼び止めると和葉は首を傾げたが、それを見て歩きながらも言葉を続ける。
「姉ちゃんが殴らなかったらな、お前が殴ったったらええ」
「え?」
「殴ったらええねん、工藤にはええ薬や」
 実際、すでに和葉の性格を承知しているあの男と、面と向かっての挨拶なんてまだしたことがないと思っている和葉の会話は自分としても見てみたいと思う。
「たまには痛い目あえばええ。アイツかっこつけやさかい、ちょっとは情けないところみたいやんか」
「それって、ただのやっかみと違う?」
「ちゃうちゃう」
 きっと信じてはいないだろう台詞を、和葉はけれどふーんと軽く相槌を打つ。

 でも、と続けたのは和葉の家の門前であり、別れる寸前だった。
「なんぼ工藤君相手かてやっぱり蘭ちゃんは偉いわ。ちょーっとの時間も待たされるだけでイライラすんのに。私なら絶対愛想付かすわ。数ヶ月どころか数時間で、本気で投げ飛ばしたくなるしなぁ。ホンマ蘭ちゃんは偉いなぁ」
「……和葉。それ姉ちゃんへの褒め言葉やのうて、絶対俺に言うてるやろ」
 合気道二段の彼女が全力で自分を投げ飛ばしたら、ましてそのとき油断でもしていたらきっと綺麗に宙を舞うだろう。そう確信しながら少し冷や汗を出すが和葉はそ知らぬ振りで振り返った。
 やはり絶対まだ怒っている、言葉の端々がそれを物語っていた。
「今日はホンマに悪かったって。言い訳はせぇへん。今度埋め合わせするさかい」
「……じゃ、今度おばちゃんに紹介してくれはったおいしいって評判のケーキ屋があんねん。もちろん平次のおごりやで」
「……おう、分かった」
 足元を見たような発言は、けれど否定する要素はない。なにしろ非はやはりこちらが完全にあるのだ。しかし自分の母親とどれだけ仲がいいのだろうか、そんな話聞いたこともないのに。考えながら頷いてみれば、怒りはまだあるだろうけれど、約束、と小さく笑顔を作った。まぁそのくらいおごるのは当然かと思って和葉が家に入っていくのを見送る。さて、喜怒哀楽の激しい彼女はいつになったらあの怒りを沈静化してくれるだろうかと、自分も岐路に立つ。


 どうせこちらの協力なんてあまり必要とせずに真実を見極めて、いつか、今じゃないいつか、絶対に帰ってくると信じているのはなにも幼馴染の彼女ばかりじゃないのだ。
 中々にして負けず嫌いなあの男がそれでも頼ってきたとしたら、そうしたら西の探偵として、東の探偵を。なにより工藤新一の親友としてできるだけの手助けをするつもりなのだ。でなくて、どうして高校生の身分でわざわざ新幹線や飛行機に飛び乗って会いになんて行くものか。
「せやから、はよ全部終わったらええのに。殴られにさっさと元に戻ってこいっちゅーねん」
 西の探偵にとって東の探偵は工藤新一であり、江戸川コナンであり、江戸川コナンはやはり工藤新一なのだ。実際まともな会話すら高校生同士として一度もしていないのだからゆっくり話したいと思って何が悪い。
 どうせなら。そうどうせなら。自分と大差ない目線で事件や謎を解いて。そうして真実を見極められたらそれに越したことはないのだから。




***




 結局、和葉が提示した埋め合わせプランは二度ほど事件に巻き込まれてキャンセルとなった。
 その後“毛利小五郎と推理対決”という服部平次からすれば真に不本意な企画を提示されてそれに和葉を連れて行く形で埋め合わせとなったのだが。
 やはりというか当然というべきか。
 探偵が揃った時点で事件は当然のごとく起こり、結局和葉にとってそれが埋め合わせとなったかは定かではない。

猶予(う)期間