友人を見送った陽介は、ぼんやり帰路へ向かった。
 自室はいつもと変わらないのに、少しだけひんやりとしている気がする。
 心にぽっかり穴が空いちゃうクマ……なんて、同居人のクマが言っていた。もっともクマのことだから本当に穴が空きそうで怖いのだけれど。

「行っちまったなー……」
 携帯を見つめてそう独りごちる。この一年で随分と賑やかな内容になったアドレス帳、その中で一番連絡をしていた彼が今日この町を出ていった。
 桜が舞い散る中で涙の別れなんて、まるでドラマみたいな景色だった。こんな何かを真剣にやり遂げなければ、きっと横目でダッセェなんて言っていたかもしれない、まさに青春みたいに彼の乗る電車を追いかけた。
 彼がとても大切にしている、彼の従妹は泣きながら、それでもしっかりと立って彼を見送っていた。最後にとんでもない爆弾を放っていったらしい。(彼女の父親が戸惑いながらも嬉しそうに笑って報告してくれた。なんだか今後、相棒の素行調査をされそうな気分だった)そんな未来を願えるようになったことが何よりよかったと思う。

(本当に、あの時止めてくれてよかった)

 マヨナカテレビに映し出された生田目太郎の影。あの言葉に耳を塞ぎたくなるほど苛立ち、そうして根源を消し去ろうとした。テレビに入れてしまえばもう何も残らない。ある意味完全犯罪成立だった。――そう、犯罪だったのだ。
(俺、最っ低だったな)
 なんだったら彼を焚き付けた。寸でのところで押し留めた彼は、明らかに震えていたのに、陽介はまるでその方が意志の弱い奴みたいに叱咤したのだ。今考えると恐ろしい。万が一あのままテレビに突き落としたとして、今の様に菜々子の笑顔をまっすぐに見つめることができるのだろうかと。答えはもちろんノーだ。そもそも彼女がこうしていられるのかすら危うい気もする。

 なんの躊躇いもなく、ただ本当に呼びかけた愛称を、もう本当の意味でそう思っているし思っていた。
(でも、アイツの道を踏み外させようとした俺は、)
 彼はまるで選ばれた人だった。物語のヒーローみたいだ。数多のペルソナを使いこなし、寛容で、根気があって、伝達力と知識が半端なくて、なにより勇気があった。どんな人も惹きつける力があって、いつだって人に囲まれていた。陽介はそれがとても誇らしくて、ちょっと嬉しくて、そしてそんな彼が一番最初につるんだ相手が自分だとういうことをとても大切にしていた。
 だから絶対に聞けなかった。一緒にいるのがとても心地よくて、だからこそ確認なんてできない。
(はは、お前なんか相棒じゃないとか言われたら、寝込むわ)
 きっと平和で退屈な稲羽であったはずの一年は、間違いなく最悪だった。でも少なくとも俺達にとって、最悪でも最高でもあった。それは彼がいたからなのだと、誰もが知っている。

(俺、アイツの相棒でいられてんのかな)
 そんなことを思った矢先に、まるで何か導かれるように携帯が鳴った。
「うおっ」
 思わず携帯を手から落としそうになって、慌てて持ち直すと相変わらずのタイミングの良さというか、今思考を全て占めていた相棒その人だった。

『花村。さっきぶり』
「おー、家着いた?」
『ああ。なんか変な感じ。俺の家じゃないみたいだ』
 苦笑気味にそんなことを言うから、陽介としては複雑な気分になる。
(そんなに実感がない家なら、ここから離れなくてもいいじゃん。)
 涼しい顔して何でもできそうなくせに、彼もやっぱり俺たちと同じ様に親に養われている、ただの学生ということが現実なのだ。
「で? なんだよ速攻かけてきて。俺としては嬉しいけどよ。なになに、寂しくなった?」
『何言ってるんだ。寂しいに決まってるだろ。菜々子や皆がいないの耐えられなさそう』
 一ミリも思っていなさそうな声で、でもきっと本心でそんなことを言われて、まるで茶化しているこっちが馬鹿みたいだなと思う。
 でも茶化さないとやっていけそうもなかった。春休みが終わって、学校に行っても会えないなんて、今度はいつ会えるだろうかなんて、もう、会えなかったら、なんて

『まぁ折角だし花村に言っとこうと思ってな。電話した』

 はく、と自分の息が止まる音がした。あまりにもタイミングが良すぎて、とても嫌な予感がする。

 ――もう稲羽には戻らない
 ――これでお別れだな
 ――本当は相棒だなんて思ってなかった

 無数のそんな言葉が駆け巡る。聞きたくなかった。夢の中で幾度と言われた台詞。全てを縫い付ける言葉。
 でも陽介はきっと彼にそう言われてしまえば何も言い返せない。その通りだと陽介自身が思ってしまっている。

『色々ありがとう』
「え」
『一年間の転校だったから、本当は深い繋がりとか考えてなかったんだ。何もしなくても一年は過ぎていくんだろうって思ってた。でも皆とこうして会えて、事件もあったからいいことばかりじゃなかったけど、でも、俺は稲羽に行けて本当に良かった。菜々子に会えたし』
「……結局菜々子ちゃんかよ」
『うん。でも、最初に花村が俺と一緒にいてくれたからだと思う。花村はさ、ちょっと直情型で残念で運がないけど』
「お前は俺を落とさないと生きていけないの?」
『はは。じゃあちゃんと言う。ありがとう。どんな時でもお前が突っ走ってくれたから、俺も動けたし、考えられた。お前が相棒で良かったよ』
 それを言いたかっただけ、と付け足されて沈黙が降る。立っていられずしゃがみ込んだ陽介は、混乱する頭のまま口を開いた。
「……お前、それなんで今言ったの」
『直接言うのはさすがに恥ずかしいだろ』
 何を。もっと恥ずかしいことさらっと言うくせに。
 陽介は本当に電話でよかったと思う。だってこんな顔誰にだって見られたくない。顔どころか頭と携帯を持つ指先まで全身が熱い。
「なんだよ、俺、もうお前に会いたくないとか、相棒じゃないとか色々言われるんだとか、考えたじゃねーか」
『は? なんで』
 え、俺何かしたか、なんて少し焦って聞いてくるので、もうこの際だと心の内を吐き出す。
「だって、俺、お前にいっぱい迷惑かけたし、生田目の時だって最低だったろ。ごめんな」
『……気にしてたのか。気づかなかった、ごめん』
 息を飲む音がした後に聞こえてきたのは、花村に対しては珍しい随分優しい声だった。
「いや謝んのは俺なんだって」
『だってそんな風に思わせてるなんて、反省点だ。もう少し共感力とか身に着けたほうがいいかな』
「やめろお前これ以上超人になってどうするんだ。神にでもなるつもりか」
『イザナギは神だからな』
「そういう問題じゃねーよ! あとお前が言うと洒落にならねーんだよ!」
 思わずしっかり突っ込んでしまった。何だか彼の予定調和に組み込まれてしまった感が否めない。
「あーもう、……ほんと――ちゃんと5月に帰って来いよ」

 確かに、悔しかったんだ。
 同じ年で同じように都会から転校してきて、ちょっと訳アリっぽくて境遇が似ていると思ってた。
 でもどんな時でも適わなかった。対等じゃないとか隣にいるのは相応しくないとか思ったことさえあった。
 でもやっぱり、陽介自身が彼と一緒にいたかった。

『……言ったな?』
「え、何、怖」
『俺がウキウキ帰ってきた時に、お前なんて知らないなんて言ったら、幾万の真言打ち込んでやるからな』
「辞めろ! そもそもテレビの外でそんな芸当できる訳――いや、やっぱお前ならやりかねねーしとりあえず俺死ぬだろ!!」
 思いっきり叫んで、彼の笑い声が聞こえる。
 今の顔が直接見れないことが少し悲しくて俯いたまま続ける。
「つーか? なんで俺が忘れるんだよ。ここにいる奴ら全員忘れたりする訳ねーだろ。なによりお前のことなのに」
 馬鹿にすんなよな、と付け足せば彼はそうか、と言った。
 思わず拗ねたような口調になってしまったが、もしかして彼も自信がなかったのだろうか。歴史で習った、余の辞書に不可能の文字はない、なんて言った奴みたいなのに。

 不意にがちゃり、と電話の先で音がした。それが何の音かもう花村には分からないけれど。
『じゃ、言いたいことは言ったから。またかけるな』
「あー。俺もみんなも電話するから、覚悟しとけよ」
『ああ、楽しみにしてる。これからもよろしく、陽介』
 ぷつんと電話が途切れる。
 ツーツーと特有の音が聞こえた。
「ほんっとに、あの野郎……最後の最後に呼び捨てかよ」
 陽介は先程まで熱かった指先が冷えていくのを感じた。熱はけれど目頭に集中している。
 随分涙腺が弱いな、クマみたいだ。なんて言ったのは紛れもなく相棒だったと思い出す。

 だって仕方ない。自分から飛び込んだせいだったけれど、大好きだった先輩があんな形で居なくなって、それを弔うことすらちゃんと出来ないままだった。





 ――花ちゃん

 優しい声を思い出す。先輩、やっと終わったんだ。
 俺、頑張ったかな。完璧とは言えないけど、でもアイツらと頑張れたよ。先輩はお節介、って言うかもだけど。

 終わった。やっと。終わってしまったんだ。
 だからきっと、これから始められる。

 悔恨と悲しさと、あとそれと。
 ぐちゃぐちゃな思考回路は、でも先程までの嫌なものじゃなかった。
 先輩のことは今でも思い出す。でも、アイツに認められたことで少しだけ救われた。本当になんなんだよあいつ。ヒーローかよ。ヒーローだったわ。
 今度会う時は、絶対俺から呼び捨てで叫んでやろう。ちゃんと覚えてただろ、なんて言ってまた馬鹿をやろう。

 だから今日だけは、このまま泣かせてくれ。

 何の涙かは複雑すぎて簡単には表せないけど。
 これはきっとあの桜のような餞別のそれだ。

餞別を君に