聞き慣れた音を聞きながら、俺は机にゆっくりと突っ伏した。最近は特に疲労が酷い気がすると考えて、ふと、頭を少し上げた。けれど自分の席の前にいる灰色の頭を見て、すぐに目だけを背ける。つい数日前まで一見分かりにくい男が無理しているのがなんとなく分かっていた。

 けれどそれも一段落、少しだけ光が見えた気がしていたから、目線を戻して声を掛ければこちらを振り返った。髪と同じ色の目がこちらをじっと見ている。
「今日の授業タリーな。しかも最後柏木だったしよ」
「俺、お前が真面目に授業聞いてるところ見たことないけど」
「な、何言ってんだよ! 俺だって真面目に聞くときだってだなぁ」
「……そうだったか?」
 納得もしていないのだろうとありありと分かって、何時もどおりの反応が見られて微かに笑うと、分かっているのか分かっていないのか、視線が困ったようなものへと変わった。
「期末テストが終わったからってあんまり怠惰になるなよ」
「……成績トップのお前に言われるとなんか微妙なんですけど」
「? なんでだ」
 先ほどよりはっきりと分かるように困ったような仕草をして、心底不思議そうにこちらを見る。
 成績良くて人当たりも悪くない。けれどどうして中々常識外れなこの人物はそのまま立ち上がり鞄を肩にかけて席を立とうとしたから、それを慌てて止める。
「なぁお前暇? 俺今日バイトないから晩飯とか食ってこうぜ」
 同じように立ち上がって目線を合わせて言えば、こちらをじっと見て小さく頷いた。了承、ということだろう。
「じゃ、やっぱ愛家かなぁ、あ、ジュネスでもいーぜ? フードコートで食うってのも久々だよな」
「……それってただの利益目当てやつか?」
「言い方! せめて商売上手って言えよ」
 教室を出て昇降口に向かいながら言い合っていると、先輩後輩同級生問わずよく挨拶をされると思う。顔見知りも多いみたいだし、もう俺よりずっと学校の有名人なのだろうか。
「花村、ジュネスでいい」
「おっ、毎度ありー」
「ああ、久々におごってやる」
「――へ?」
 ぼんやりと思考を飛ばしていたせいか、靴を履いていた俺の上から放たれた言葉はなんとも珍しくて少し止まってしまった。





「はい」
「あ、ああ……サンキュ」
「食べないのか?」
 ジュネスのフードコートの何時もの席に座った俺の前には冗談交じりに頼んだ食事が運ばれてきた。
 滅多にない行動に目を白黒させていると、せっかくおごってやったのに、と不満そうな表情をこちらに向けながら注文したものを口に運んでいる。
「な、なぁ、お前なんか企んでる?」
「……いらないんなら食うな」
「え、ちょ、ちょタンマ! いただきまっす!」
 馬鹿にしたような表情で何かを感じ取ったらしい彼は奪おうとしていた手を止めて、取り繕うように発した俺の言葉を水ごと喉に流し込んだようだった。
「だってお前、俺らにおごってくれるなんて中々ないじゃん」
「? 武器や薬買ったほうが皆の為になるだろ」
「……いやそうなんだけど、そうじゃなくて」
 恐ろしいほどの正論なのだけれど、どこか抜けていると思ってしまった。もちろん、そんな思考回路だからこそ戦闘中やそれ以外、なにからなにまで色々頼んで任せてしまっているのだけれど。それにしても武器だなんて堂々と、しかも普通の音量で言ってしまえるのがすごいと考えて、辺りを見回す。今日も霧は濃くて人は少なかった。目の前にいる顔すらも良く見えない気がした。
「それは俺個人の金だから気にするな」
「は?」
 唐突に言われた言葉に目を丸くする。確かに皆で得た金銭を特定の人間と遊ぶ時に使うタイプには見えないけれど、高校生である自分たちが同じく同級生である自分におごるなんてあまりあることではない。……尤も、ジュネスの店長の息子なのか、不運さ加減なのかともかく、自分にはよくあることなのだけれど。
「い、いいのか?」
「んー、バイト代結構入ったしな」
「バイト代? なんの?」
「家庭教師とか学童保育とか……、確か今は全部で」
 いち、に、さん、と指折り数えていくのに眩暈がした。一体どれだけバイトをしてんだこの男、好き好んでやっているとしてもその体調が不安になるほどだ。そもそも前に聞いたときも違うバイトをしていたはずなのにどうやら更に増やしたらしい。
「すげーわ。疲れねーの?」
「ま、少しは。……だからかな」
 口に運びながら、こちらも見ずにそう告げた口調は少しだけ何時もより小さく聞こえた。
(ああ、なるほど)

 コタツを買おうとしたことを思い出す。そういえばあの家に居たはずの二人は病院で治療をしているから今は誰もいない。元々自分の家ですらない場所に帰るのはどんな気分だろうか。

 転校して、テレビに入って、そうして事件を解決していって。
 そんな中いつだって呆れるほど冷静で喜怒哀楽の差が少ない、けれどどこか変わった空気を持つこの人物が、なんだか悔しかったこともある。
 確か表情をしっかりと崩すのを初めて見たのは可愛い従妹をつれて来た五月。
 心底辛そうに見えたのもあの子が関わった時。一瞬息を引き取ったかと思わせたとき、あの子の手を握っていた手が震えていたのは確かだった。全部が分からなくなった時間、そういえばぼんやりといつのまにか学校からいなくなっていたことを思い出す。
 何を言ってどう接すればいいのかも分からないのは、大切な人を失う喪失感を少なからず分かっていたからだけど、俺らのそんな思いですら気を使わせていたのかと全部が悲しくて悔しくて辛かったけれど、彼にとってそれ以上だったのだと思い知らせてくれた。そんな感情のブレに少しだけ安堵とも違うけれど安心したような奇妙な感覚を覚えたのを思い出す。
 それはきっと完璧だと錯覚しそうなこの人物も、俺らと同じ高校生で子供だと分かったから。


「よっしゃ、じゃ飲み物は俺のおごりな! 何がいい?」
 立ち上がる俺を少し驚いたように見て、そうして少し目を細めて「なんでも」と言う。相変わらず欲とかないのだろうかと思いながら、それこそ適当に選んで持っていく。
「バイト、少しは抑えろよ。お前ぶっ倒れちまったら皆心配すんぞ。困るし」
「ああ、でも俺、そんなに体力ないこともないぞ?」
「そーゆー問題じゃねーよ。お前なぁ、マジで」
「分かってるよ。もう大丈夫だ」
 先を読まれたように断定したその言葉は何時も通りの音量ではっきりと強かった。それだけ聞ければ十分だ。きっと、本当に大丈夫なんだろうと思う。嘘はつく柄じゃない。
 感情の差は見えるくせに、悲しいとか、辛さをあまり見せてくれなかったのは性格と言えばそれまでだけど、ちゃんと悲しそうな表情も分かったのは、何も悪いことじゃなかったのだと今なら思える。
「今度コタツ買えよ、菜々子ちゃんの退院前に、ちゃんとジュネスでな!」
「そうだな。それにここじゃジュネスしか売っていないしな」
「……それは妥協してるって言いたいんですかー?」
「悪い悪い。また皆で来るか」
 ちっとも悪びれてない表情は、それでも少し楽しそうに見えてまたホッとする。あの子の名前をしっかりと言える今は、あの時間よりもまだ少し上昇していて、それを齎したのはあの冷静な判断からで、今向かうべき最後の決着もやっぱりコイツがいないと困るのだろう。本当にあの時リーダーに指名した自分を自画自賛したい気分だ。

 おごってもらった食事を平らげていると、先に食べ終えたらしく俺へと目を向けた。それを問うように首を傾げれば小さく口を開く。
「花村、明日行くか」
 口調はいつもどおりか逆に軽いようなものだったけれど、眼差しは真剣だったからその後に続く言葉なんて聞かずとも分かっていた。
「おうよ、相棒」
 だからそれだけ返して笑って見せると、自信だけを固めたような笑みを返されたので、根拠もなく明日でやっと全部終わるのだと思う。そう確信して、その直ぐ後にあるクリスマスの話題を持ち出そうと考えながら立ち上がった。

緩慢曲線