文字にして四文字。
 時間にして数秒間。





 病院で二人を見舞って、仲間と別れて家路に立つ。重めの玄関を横に引くとがらがらと音がした。それと同時に声が聞こえた気がして自嘲気味に笑う。
 部屋の様子も雰囲気もなにひとつ変わらない。ただ、中身の変わらない冷蔵庫といつもなら家に入った瞬間に聞こえる声がしないだけ。

 ぼんやりといつもの机の側に座りテレビをつけて、瞬間、よく聞いたリズムの音が聞こえてすぐに消した。
 すまないな、とそれこそ申し訳なさそうに聞こえた叔父の言葉も聞こえて気を使わせないように言った言葉は、きっと見抜かれてしまっただろうことは分かっていた。何しろ勘が働くし、次第に会話も増えたから性格故にどう返すかなんて分かっていたんだろう。
(バイト、行くかな)
 くん、と両手を上に伸ばして天井を見上げてカレンダーに目線を向ける。そこで気付いたのは今日はどちらのバイトもなかったこと。
(曜日の感覚も曖昧、か)
 はぁ、と殊更深い溜息を吐いてゆっくりと肩を回した。
 読書も殆ど終えたし勉強をする気になんてならない。テレビの音は雑音にしか聞こえないしと、選択肢を消去。窓を見れば小雨が降っていて、元から一つしかなかったような選択肢をとりだした。
(……釣り、行こ)
 疲れて帰ってこれば何も気にならないはずだと、自室で支度をしてまた玄関へ向かって、小さく口を開いてすぐに閉じた。音にすら出していなかったのに、なんだか壮絶に後悔してすぐに首を振って家から出た。


 夜の鮫川河川敷は基本人がいない。
 さわさわと霧雨のような雨が当たるけれど、むしろ好都合だ。確かヌシ様は雨が降っていると釣りやすいと言っていたことを依頼したおじいさんから聞いた。
 ふわんふわんと浮き沈みを繰り返す浮きを見てその人が言っていた言葉を思い返す。
 死ぬ前にどうしても見たいなんて言って、それはきっと大げさに言うならばヌシ様を見られればもう死んでも後悔なんてしないということで。自分が釣りをする姿を楽しそうに、けれど悔恨を混ぜたような表情を思い出す。彼はその長い人生の中で悔いを残すものをそれだとして、ああして協力を頼んできたのだろう。キツネの願いの中ではもしかしたら一番骨が折れるかもしれないと浮きを見つめる。

 さて。それが自分だとしたら。
(犯人を捕まえられるなら悔いはない?)
 答えは否だ。別に自分の命をかけてまで犯人を捕まえる気はない。シャドウとの戦いはそれを伴うけれど、だからって犯人が捕まえられれば死んだって悔いが残る。皆と生きて、殺人事件なんて無い、普通の、元の稲羽市で過ごしてみたいのだから。
(でも、例えば、菜々子が)
 菜々子が、助かるとしたら。答えは、答えは? 否、なんだろうか。
 可愛い小さいまだ小学生の従妹。いつのまにか自分をお兄ちゃんと慕ってくれるようになった心の優しい子が、あんな場所に放り込まれたのは、脅迫状が送られてきた自分のせいかもしれない。なら。なんて。
(……馬鹿かなぁ、俺)
 助けてきた人達がいて、それは友達で仲間で大切な人達だ。もう一度あの場面があったとしても助けるのは目に見えている。自分にとってそんなこと、常識的だった。だけど。だから。
 堂々巡りな思考回路はぐるぐる回る。沈んだ浮きはやがて浮いてまた沈む。
「――あ、」
 手馴れた振動は深い思考で出遅れた。先日おじいさんに貰った新しい釣具は未だ手には馴染んでいないけれど、随分と性能が上がっているのか、前よりも大物が多く取れるようになった。引っ張られるような感覚は今までにないほど大きかったので、もしかしたら目的の魚なのかもしれない。
(せっかくのチャンスなのに、失敗した)
 一瞬反省して、首を振る。タイミングを合わせるのは得意なはずなのになぁ、と独りごちてもう一度餌を付けて竿を投げ入れる。今度こそ、と息を吐いて集中する。


(ん、やっぱり釣りにしてよかった)
 収穫を得た時はどっぷりと日は暮れていた。何も考えずに没頭でき、少し体力も根気も必要とする釣りは、夜の時間帯に家から離れられるからか、最近ではよく行うものにっている。

 終わったことを変えることはできない、変えられるのは未来だ。なんて読んだ本によく載っていそうだけれど、まさにそれが真実だ。動くなら先を見据えてこれからを変えることを考えるべきだ。
 そんなこと、分かっている。分かっている。なのに。

 家の前へと戻ると当然明りなんて見えず、ひっそりとそこに佇んでいる。
 返答がない挨拶は誰も知らない意味のなさないもののような気がした。だって「ただいま」に「おかえり」が相応しい。「いってきます」には「いってらっしゃい」が相応しいのに。そのどちらも返答がなかったこの家は、まるで町の霧にかかったように不安定だ。それが予想以上に哀しくて、やっぱりこの家は何一つ聞こえないこの家は、それでも未だ自分の家だと皮肉にもこんな状況で再確認するなんてと、もう一度苦笑する。

 どうかまた三人で暮らせるように、そう祈りを込めて空を見上げたのは初めてかもしれなかった。

三秒間の喪失