それから帰る時間を彼女に言うようになった。とは言ってもそんなものはあってないようなものだから、かなり大雑把なものが殆どだったけれど。
「あ、まずい」
「どうしたの?」
「菜々子ちゃんに遅くなるって言ってはきたんだけど……」
「へ? ちゃんと言ってあんだろ? 何がまずいんだ?」
 花村の言葉に天城が同意するように頷く。
 腕時計を見たときは短針が8の近くを指していて、そのとき初めてこんなに時間が過ぎていたのだと気付いた。
 何しろ今まではテレビの中にいたのである。時間経過が曖昧で認識もあやふやであるから、今が何時かなんてたまにというか割とよく忘れてしまう。こんな時ナビのクマが人間の感覚に近かったらなぁと少し思う。
「いつもは遅いって言ってもそれほどじゃないんだけど。あの子俺が帰ってからご飯の支度するから」
 なんでだろうかと首を傾げる。もちろん支度といっても小学生の彼女がやることはお茶を用意するとかそんなものなのだけれど。


 そうして解散を告げて天城と里中に手を降り花村と帰路に立つ。送ろうかという問いかけは従妹のことを話したからか了承されなかった。
「つかお前さ、菜々子ちゃんがお前の帰りを待って飯作るの分かんねーの?」
「片付けするのが面倒だからとかか? 俺、あの子の分くらいやっとくつもりなんだけど遠慮してるのか」
「いや、激しく違うと思う俺」
「……花村には分かるのか?」
 真顔で真剣に聞くと怖いと言われたが、それを一蹴すれば花村は少し呆れた顔でこちらを見ている。
「お前と飯食いたいんじゃねーの」
「え、俺と? なんで」
「俺が知るかよ。でもわざわざ待ってるってことはそーなんじゃねーのと思うわけよ」
 年の離れた妹なんていないはずの花村はそれでも自信満々の様子でこちらを見ている。それを見てふーん、と少し感慨深げに頷く。
「……なんだよ」
「それがもし当たってたら花村は凄いと思って」
「いや十中八九それだろ。って、お前マジで気付かねーの? あんな訳分かんねーモロキンの質問にさらっと答えられるくせに」
「……悪かったな」
 罰が悪そうに少し顔を伏せて時計を眺める。いよいよ時刻は8時だ。
「っと、ちょっと急いで帰る。またな、花村。当たってたら今度お礼に揚げ出し豆腐作ってやるよ」
「お前それ分かってて言ってんだろ! いらねーからさっさと家帰れ!」
 花村の不躾な言葉を背中で受け流して走ってそのまま家へと向かうことにした。


「っ、ただいま」
「あ、お兄ちゃん、おかえりなさい」
 ガラガラと玄関を開けて声をかければ、彼女はいつもと同じようにテレビを見ながら座っている。もちろん食事をした形跡なんてなくて、花村の言う通りなのかも知れないと頭を過る。
「……えっと、菜々子ちゃん。ごめんね」
「どうしたの?」
 彼女は不思議そうな顔をしながら台所に行き、冷蔵庫からジュネスで買ったらしいお弁当を取り出す。
「いや、その、……帰ってくるの遅くなって」
「お兄ちゃん、あさいってたから菜々子わかってたよ?」
「でも菜々子ちゃん、待ってたんだよね? ……俺と、ご飯食べるの」
 机に出されたお弁当と飲み物を見ながら、いつの間にか決まったその場所に腰を下ろす。
 彼女は少し驚いた様子で顔を隠すように頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「え、何が?」
 先ほどの会話を反対にしておうむ返しのようだと内心考える。
「だって菜々子のせいでお兄ちゃん、ともだちとながくあそべなかったんでしょ?」
「え」
「菜々子、お父さんともそんなにいっしょに夜ごはんは食べないからだいじょうぶだよ」
 私は独りでも大丈夫。そう案に言っているのだとさすが気付いて少し申し訳なさが増す。
「菜々子ちゃん。俺、何かしたいことがあるなら言ってって言ったの覚えてる?」
「うん」
「だから菜々子ちゃんがご飯食べたいなら、もちろん俺も食べたいし一緒に食べよう」
 そう言えば下げていた頭を上げて目を丸くして先ほどよりも驚いているようだった。
「でも、お兄ちゃん、ともだち」
 たどたどしく単語を続ける彼女に苦笑気味でその言葉を遮る。
「別にいいんだよ。学校で毎日会ってるし。もちろんたまにはご飯食べてくるかもしれないけど、それは朝にちゃんと言うよ。ね、約束してくれる?」
「やくそく?」
「これからご飯は一緒に食べる。俺と菜々子ちゃんの約束。嫌かな?」
 常が無表情のような自分の顔を少し恨めしく思いながら、それでも優しい顔になれと念じながら言う。
 この子と話すと勇気が上がる気がした。
「……いやじゃない。ほんとに菜々子と食べてくれる?」
「うーん、というか、一緒に食べたい」
 言い回しを訂正すると、ぱぁ、と笑う。
「っ、菜々子も! お兄ちゃん、いろんなお話してくれるし、ひとりで食べるよりたのしいよ」
 ああ、なんか妹を猫可愛がりする兄の気分というよりも、愛娘を持つ父親の気分だと思いながらくすりと頷いた。
「じゃあ、約束な」
「うん! ゆびきりする!」
 懐かしい響きに笑いながら答えて遅めの食事にありつく。この笑顔を見られるならちょっとくらい影との戦いで疲れた身体なんてどうにでもなる気がした。


 ともかく花村にはお礼をしないといけないということで、けれど流石に揚げ豆腐は手間がかかる上に喜ばれないだろうから、一見豆腐っぽいクッキーにでもするかと我ながら訳の分からない白くて重い塊を手渡した。それを花村は「材料と根気の無駄遣いすんな! でも材料はジュネスで買ったんだってな、お買い上げありがとうございます!」と凄く複雑そうな顔で受け取ってくれたのは余談だ。

収束のための支度