春が終わり、あともう少しで夏を告げはじめるだろう時期、テストや部活やなんやらといった出来事もあってかやっと町に馴染み始めて、仲間も少し増えた。
 そうするうちに朝に声をかけられることも多くなった。
「おはよ」
「おはよう。里中、天城」
 相変わらず仲が良い二人はよく一緒に登校するらしい。
「あれ、花村君は?」
「さぁ? 朝は見てないから」
「一緒に登校しないの?」
 不思議そうに天城に言われた台詞に目を丸くする。一緒に登校なんて考えもしなかった。
「いや、里中達みたいに毎日一緒って訳じゃ」
「え、そうなの? なんかいつも一緒なイメージだったから」
 そうだろうかと首を傾げる。テレビ内の探索があるから確かに一緒にいる時間は長いけれど。けれど、「明日一緒に学校へ行こう」だなんて花村と約束している風景を想像してみると、体感温度が五度程度下がった気がした。
「女の子と違って男がずっと一緒って気持ち悪くないか?」
 そんな思いのまま、そう呟くと何を考えたのか天城が笑いを堪えている。それを呆れるような顔で里中が見つめ、二人で苦笑した。

 取り留めのない話をしながら学校への道を歩いていると見慣れた背中を遠くで見つける。それが誰か直ぐに分かったのは、周りに空白があったからだ。顔をそむける者や明らかにおびえている者もいる。そんな格好と睨むような顔をしているからだろうか。
「あ、完二。学校サボらなくなったのか」
 完二の相変わらずの格好は、けれどしっかり鞄を持って歩いている。
「ああー私昨日も見た……え?」
「えっ、て、え?」
 同意するように里中が声を上げたが、すぐに少しキョトンとした顔をされたので首を傾げると、まるで間違い探しを言い当てたような顔を向けてきた。
「君って完二君は名前で呼ぶんだ」
「え? ああ、そうだな。巽より完二かな。変?」
「そうじゃないけど、君って誰かを名前で呼び捨てで呼んだりしないんだと思ってたから」
 花村や一条君がいい例じゃん、なんて言われて少し困る。完二を完二と呼ぶ理由なんて無くて、強いて言うならしっくりきたというだけだ。
「そういえば、菜々子ちゃんもちゃん付けだよね。どうして?」
「……どうしてって言われても」
 今度は不思議そうな顔で天城が聞いてきたので少し戸惑う。菜々子ちゃんという呼び方はいけなかったのだろうか。
「完二君呼び捨てにするなら菜々子ちゃんも呼んであげなよ」
「へ? なんでそんな理屈に」
「君がお兄ちゃんで菜々子ちゃんが妹だから!」
 そう強く言ってきた里中と頷く天城に圧倒されて、よく分からないまま頷いてしまった。
 そうは言われても、前より話すとはいえまだまだな気もする。完二にしろ呼び名にあまり頓着したことは無かったから、いきなり呼び捨てに変えるというのは抵抗がある。
 そもそも彼女はそんなこと望んでいるのかもよく分からない。
 分からないことだらけだと、いっそ色々と無理難題を言ってくる教師陣の授業よりも難解な気がして、いきなり降って湧いた難題に頭を抱えたまま、放課後になっていた。


「ただいまー」
 結局良い答えも見つからないままぐだぐだと考えあぐねながらガラガラと堂島家の玄関を開けて小さな可愛い色の靴を見つける。小学一年生の彼女は大抵自分よりも早く家にいたし、今日もそのようだった。
「あれ?」
 けれど最近はよく出迎えてくれる彼女の姿が見当たらず、居間にもいないから少し不思議に思って家の中へと足を踏み入れる。靴から察するに家にはいるはずだろうけど。
 玄関からいつも彼女が居る場所にもいない。どうしたんだろうかと首を傾げようとして、視界の端に入った台所でうずくまっているのが見えた。

 台所。うずくまる。

 その二つの単語を浮かべて、少し前の料理をしていた時を思い出す。包丁を使っていいのは俺といるときだけ、と約束したはずだけど彼女のことだ。もしかしたら誰かを、自分の父親を驚かせようとして料理の練習でも始めたのかもしれないと、一瞬のうちに良くない想像を膨らませて、彼女に駆け寄る。
「菜々子、どうした!?」
「……え」
 持っていた鞄を床に落として、駆け寄ると、初めて俺の存在を見つけたかのように驚いて、うずくまったままぼんやりと顔を上げる。見る限り怪我はしていないように見えた。
「どうした? 何かあったのか?」
 そっと肩に手を添えれば、彼女は目をさらに丸くして、ひとつ瞬きをする。
「う、ううん。たまごをれいぞうこに入れようとして、おちちゃいそうになったから。菜々子、がんばってうけとめたんだよ」
 割れなかったよ、と笑顔で言う彼女に心底安堵の溜息を吐いた。
「良かった」
 そのまま手にしていた卵を受け取って冷蔵庫へとしまう。そろそろ買い物とかも当番制にしようか、それとも一緒に行くべきか。そんなことを考えていると、後ろで彼女がそわそわしているのが分かった。目線はこちらを見ていてどうやらなにか言いたいことがあるようだった。なんだか嬉しそうな顔をしているので首を傾げて目線を合わせる。
「どうかした? 菜々子ちゃん」
 聞いてみれば、先程の嬉しそうな顔を曇らせる。ますます良く分からないと首を傾げていれば彼女は首を横に振る。珍しい否定的な表現だった。
「お兄ちゃん、さっき菜々子のこと菜々子ってよんだよ!」
「……あ」
 そういえば勢いよく呼んだ気がする。朝の出来事から呼び捨ての練習を脳裏でしていたからだろうか。
 ごめん、嫌だっただろうかと声をかけようとしたが、それは次の言葉でかき消される。
「菜々子の方がいい!」
「え?」
 訳が分からない一言に目を丸くする。記憶間違いでなければ菜々子の方が、と言ったはず。

「あのね、がっこうのともだちにもね、お兄ちゃんいる子がいるんだよ」
 置いてけぼりな思考をそのままに、彼女が始めた唐突な会話に着いて行ける気がしない。首を傾げすぎてそろそろ痛くなってきそうだ。
「うん?」
「でもね、みんなのお兄ちゃんはよびすてに呼ぶんだよ。だからお兄ちゃんが菜々子ってに言ったのうれしいよ! だから菜々子のほうがいい」
「……ああ」
 ああ、そういうことか。やっと理解できた彼女の言葉の意味が分かり、女の子同士だからだろうか、やはり里中達の方が彼女の事を理解している様に思えた。
「そっか。で、どこも痛くない? 菜々子」
「……うんっ!」
 名前を呼んで頭を撫でればえへへへと笑顔になる。そんな顔を見て、どうやら里中達にお礼をしないといけないらしいと考えながら、今まではたいして気に留めていなかったことを知る。

 呼び方は重要で、距離感が縮まる良い方法なのだと。

手まねくための手段