白を基調としたのは病院がどこでも変わらないものだなぁと少し冷静になって考える。
 そんな思考回路が出てこられるようになったのは、間違いなく、この場所にいる二人が無事だと理解できたからだ。
 制服と革靴で歩く廊下は前にいた学校よりもさらによく響く。八十神高校の廊下はもっとぎしりという木の音がするんだよなぁ、なんてふとどうでもいいことが頭をよぎった。
 目当ての場所について、小さくノックをする。寝ているだろうかと思っていたけれど、入るように声が聞こえてドアを開ける。

「叔父さん……って、何してるんですか」
 呆れ切った声を出してしまったのは、年齢的に無礼なのかもしれないけれど、そんなことはもうどうでも良かった。ここは病院であり病人であるからこそ入院している自分の叔父は分かっているのかどうなのか、今まさに煙草に手をかけていた。
「や、えっと、これはだな……」
「はいはい、分かりませんけど分かりました」
 掴んだばかりらしい白い箱をそのまま取り上げて、さっさと自分の鞄の中に入れる。あっけにとられた叔父の顔をしっかりと見つめて小さくため息を吐いた。
「分かってると思いますが、叔父さんは退院するまで禁煙してもらわないと困りますよ」
「う、いや、ちょっとくらいは」
「何言ってるんですか。看護師さんに言いますよ。はい、叔父さんはこっちです」
 ぽんと手渡したのは洋服と普段使いそうなものだ。目を丸くした叔父が珍しくて少し苦笑すると話を続ける。
「退院するときの荷物です。叔父さんのことだから適当な格好でいいとか思ってるんでしょうけどね。とにかくこれはあと少しくらい我慢してください。菜々子だって沢山我慢してるんですから」
 煙草の箱を持ち上げてそういえば、困りきったばつの悪そうな顔をした。愛娘の名前を出すのは少し卑怯な気もしたけれど効果は覿面だったようだ。
「分かった、分かった。ったく、お前は俺の母親か?」
「それだったら姉のほうがいいですね」
「……勘弁してくれ」
 きっと頭が上がらないだろう自分の母親を思い出させるように言えば、ふてくされるような顔をされる。ますます面白くてなんだか笑みが漏れた。
「菜々子のところには」
「今から行きますよ、菜々子はきっとちゃんと養生してるでしょうから」
「お前……」
 釘を刺すように言ってみれば今度は深いため息を吐かれた。
「それじゃ、行ってきますね。叔父さん、退院するときにまた来ますから」
 どうせあと数日後だと叔父も知っているだろうとそう言い残して立ち上がる。
「おい」
 けれど直後に呼び止められてもう一度腰を下ろした。その声はとても厳しいもので、まるで一度取り調べを受けたときのような声色がして思わす叔父の顔をまじまじと見つめた。
「……なんですか?」
「悪かった」
「え」
「ありがとうな」
 それと無理をするな。小さく付け足された音に思わずびくりと肩が動いた。
 その謝罪と礼が何を指すかなんてもう分かっていた。どれもどれもがすべてを指すことくらい分かっていた。家族なのだから。
「……はい」
 だから返す言葉が見つからず少し頷いてみせれば、それも分かっているのか笑ってこちらを見ている。くしゃり、と一度だけ頭を撫でられた。前に撫でられたのはいつだったかと思い出せないような感触だった。
 ああ、あと少しであの家に人が戻ってくるという安堵感がじわじわと浮かぶ。


 そのまま少しぼんやりとして、叔父に頭を下げた後、菜々子の病室へと向かう。もう随分と体調は良くなったらしい。あの管に繋がれたころが嘘のようで、嘘だったらいいのにと思わずにはいられない。
 部屋に入れば相変わらずぱっとこちらを見つめて笑顔になる。可愛いなぁと心の中で呟いてとりとめのない話をした。
 叔父さんがあと少しで退院するから、次は菜々子だな、なんて言って持ってきた花を花瓶に挿していると小さな声がする。
「……菜々子も、お兄ちゃんといっしょにお家にかえりたい」
 ぽつりと言われた言葉に思わず振り返ると、菜々子は言ってしまった事実を誤魔化すかのように、けれどそれが本音なのだと分かってしまうくらいに辛そうに笑う。
「おいしゃさんがかえっちゃだめって言ってるからだめだよね」
「菜々子」
「菜々子、がまんできるから、だいじょうぶだよ」
 いつかのように言う菜々子の頭を先ほどされたように優しく撫でる。
「菜々子、もう少しだよ。ね、俺も菜々子いないの淋しいから早く帰ろうな」
「……本当?」
「うん。帰ってきて菜々子の顔が見えないのは寂しいかな」
 あ、もちろん叔父さんもいないと寂しいよ。なんて、付け足すと菜々子は笑う。さっきよりも少し楽しそうな姿で少しこちらの気分も浮上した。
 だって味気ないのだ、あの家に誰も自分以外いない現状が。言ってしまえば淋しいに違いなかった。
「私も、あさおきて、お父さんとお兄ちゃんにおはようって言えないのさみしい」
 菜々子の本心を聞き出すのはとても大変だけれど、最近は少しずつ表に出してくれるようになった。少し嬉しくなって頭を撫でながら笑う。
「退院したらさ、何かしたいことは?」
 そう聞けば、うん。と頭が頷くように縦に揺れる。
「菜々子ね、お兄ちゃんとお父さんとジュネス行きたい」
「退院して皆と家でのんびりして、菜々子が元気いっぱいになったら行こう」
 菜々子の目を見てそう言えば同じ様にこちらを見て不安そうに笑う。
「……やくそくだよ?」
 だからこちらもそんな不安を笑い飛ばせるくらいに力強く頷いて見せる。
「ああもちろん。俺、菜々子との約束は守ってきただろ?」
「……うん!」
 そう言えば菜々子は今度こそ笑う。病院にいる前の様な、それこそこっちが幸せになるような笑顔だ。

 そうして、やっと。やっと。あの場所が戻ってくるんだと確信する。

なんと当たり前の帰路へ