寒さがピークに達し、あとは暖かくなるだけだろうと思う季節になった頃、珍しく早く終わった学校に用事がなかったことも加わって、家に帰ってきたのはいつもよりも早い時間で菜々子の姿も見えなかった。
 宿題も終えてボランティアの折り紙で鶴を折っていると、ガラガラと玄関が開く音がして足を向ける。
「おかえり、菜々子」
「ただいま。お兄ちゃん、今日早いね!」
 パタパタと靴を脱いで隣に座る。頷きながら折り紙を三枚渡せば、慣れたもので鶴を折る為に三角にしている。
「今日はなんにもなかったから。菜々子は遊んできたの?」
「うん……でも」
 折りながら聞いていると何時もよりも沈んだ声が聞こえて顔を菜々子のほうへと向ける。
「菜々子、早く帰ってこればよかった」
「? どうした? 何か嫌なことでもあった?」
 珍しいことだと首を傾げると慌てて頭を横に振って、それでも顔色は優れないまま小さく付け足す。
「ううん。でもお兄ちゃんが家にいるのに」
 先ほどからこちらを見ない気持ちが何と無く分かって、何を言おうかと迷いながら何も言えず頭を小さく撫でる。
 菜々子はそのまま擦り寄る様にじっとしていたけれど、一言も話さずに鶴を折っていく。

 かさりと折り紙が鶴に変わる音だけがしている。


「ただいま」
「おかえりなさい」
 夕日が陰りを見せた時間になって、叔父さんは帰ってきた。仕事の事後処理やらなんやらで色々忙しいらしい。けれど今まで入院していたことも手伝って、最近は少しだけ帰ってくるのが早い。事件も少ないからだろうか。
「しかし、前から思っていたがよく懐いたなぁ」
 何時ものようにソファに座った後にぽつりと落ちた言葉は、自分の膝に頭を預けて寝ている菜々子へ向けたものだ。
「はい。だと嬉しいです」
 くしゃりと頭を撫でれば、少し身じろぎしたあとに瞼を開ける。
「ん……あ、お父さん。おかえりなさい」
「おう、ただいま」
 まだまだ眠そうな顔を上げてぼんやりと挨拶を交わす親子を見つめながら、すっくと立ち上がる。
「皆いるし、今日は何のご飯がいいですかね」
「そうだな……」
「お兄ちゃん、菜々子も手伝う!」
 会話は続いていく。
 そのまま、このまま、続いていければいいのにと思った。
 もちろんそんなことは到底実現できそうもない。テレビに入るのはああも簡単なのに、この場所に留まるのはどうして出来ないのだろうかと、今更ながら不思議に思う。

 そんなことを考えていた矢先だった。


「……お兄ちゃん、帰っちゃやだ」
 唐突に言われたのは食事が済んで、菜々子が片づけを手伝ってくれた後二人で座った時で、俺の袖を握りながらも言外にはっきりとした口調だったから思わず目を見張る。
「菜々子?」
「やだよ……菜々子、お兄ちゃんといっしょにいたい。お兄ちゃんとお父さんと、いっしょにごはん食べたいしいっしょにあそびたいし、いなくなっちゃうの、やだ」
 菜々子の両手で握られた服に皺が寄るのを見ながらも、何て言っていいのか分からなくなって眉を寄せる。彼女がこんなに意思のこもった否定をするのは初めてだった。
 だからと言って春を過ぎても一緒にいられるわけじゃないのも知っていて安直な返事をするわけにもいかない。
 そんな中、天の声とも言えそうな助け舟を出したのは紛れもなく叔父だった。
「菜々子、あまりこいつを困らせるな」
 何かを諌めるようなけれど優しい声に、やはり彼は父親なのだと思いながら感心する。けれど菜々子は嫌がる様に首を横に振る。ああ、彼女はまだ七歳の女の子なんだと再確認するような仕草だった。
「だって! お兄ちゃんは菜々子のお兄ちゃんだもん。みんな、お兄ちゃんがいるともだちはおんなじお家にいるもん! だから菜々子もお兄ちゃんといっしょにいるっ……」
「菜々子」
 本当に困ったなぁと思う。花村達はこんなに直で言うことは少ない。だからこそとぼけることも出来るのだけれど、これではどう伝えていいかは本当に分からない。
 きっと伝わってしまったんだろう、自分の困り果てた顔を見て叔父も困ったような顔をする。まるで今の自分の顔を映しているようにも思えた。
「菜々子、こいつは菜々子のお願い聞いてくれたんだろ?」
 そう叔父が言えば、菜々子は小さく頷いた。
「じゃあ、今度は菜々子の番だ」
「菜々子の……?」
「そうだ。菜々子は家族で妹なんだからお兄ちゃんのお願いくらいたまに聞いてやれ」
 顔を服に埋めていた菜々子はそっと目線をこちらに合わせて、言葉を待っている。それでも菜々子が喜ぶ言葉はいうことは出来ないのだけれど。

「ごめんな」
 とにかく口に出た謝罪に、菜々子はやはりすべてを悟ったのかくしゃりと顔を歪ませる。そういえばこの子がしっかり泣く様は一度か二度くらいしか見てことがないと気付いたけれど、原因が俺であるのは頂けないので慌てて言葉を続ける。
「そうだ菜々子、俺が向こうに行くまでお願いなんでも聞くから、その日は泣かない約束してくれる?」
「……」
 落ちそうな涙を袖でゆっくり拭うの見て小さく息を吐く。
「もちろん、向こうに行っても電話するよ。こっちにも帰ってくるから、ずっと会えないわけじゃないよ。菜々子も寂しい時は電話して」
 目が痛くなるんじゃないかと思って拭っていた手を捕まえて、菜々子と目線が合うように腰を下げる。
「ね、菜々子。菜々子は俺の妹なんだから離れてもずっと家族だ」
「お兄ちゃん」
 この一年弱で随分と呼ばれ慣れてしまった呼称に頷いて見せて、いたずらに笑ってみせる。
「それとも菜々子と俺は一緒に住んでないと家族じゃなくなっちゃうのか?」
「……そんなことない!」
「でしょ? だから大丈夫、菜々子」
 ぽんぽんと、また頭を撫でる。そう言ってくれるだろうと思っての言葉だったから少しずるい気もしたけれど菜々子の気分がちょっとだけ浮上したのが見て取れて安堵する。

「……菜々子、オムライス食べたい」
「ああ、何でも作るよ」
「皆とも遊ぶ」
「そうだな、空いてる日聞いてみるよ」
「お兄ちゃんと二人でも遊ぶ」
「うん、それはいつでもいいよ」
「お兄ちゃんと一緒に寝る」
「じゃあ、叔父さんと三人で此処にお布団並べて寝ようか」

「それと、それとね」
「ゆっくりでいいよ、菜々子。まだ俺は此処にいるから、ね?」
 こくんと頷き思案し始めた顔を見ながらぼんやりと事構える。すぐに菜々子はばっと顔を上げてこちらを見る。少し言い淀んでいる姿を不思議に思いながら首を傾げると、彼女は何かを決めたのか勢いよく口を開けた。


「菜々子とでーとして!」


 愛娘のまさかの一言に視界の隅で叔父である堂島遼太郎が止まったのがはっきり見えた。

春のいろが来る前に