きっかけは一通の手紙だった。
 ルークにファブレ子爵として出席してほしいと送ってきたのは、キムラスカ王国陛下、ナタリアの父親である。理由を知る以前に、依頼主が依頼主であるために無下にできるはずもない。流石のルークも心底しぶしぶといった感じではあったが早々に承諾した。幸い、国王の心情はそれとなく理解できたためか反対する者もいなかった。最終目的が見えた旅は、もう見境を無くすほど急いではいないように感じられる。
 アルビールの速さを以って、早々にルークたちはバチカルへと戻ってきた。
当然、ルークが出席するということは、同じく王位継承者、まして陛下の愛娘であるナタリアも出ることは必至だ。

 社交用の洋服を身にまとい、ナタリアは見慣れた部屋へと声をかける。
「ルーク、準備はよろしくて? 入りますわよ」
 こんこん、とルークの自室のドアを鳴らすと、ぶっきらぼうに承諾の声が聞こえる。
 ほんの数ヶ月前までは、このドアを開いたことなど数えるに足りた。
 そんな場所は、アニスに言わせれば「無駄なくらいに高価なものばかり」と言わしめるが、ナタリアからすれば小さくひどく質素な部屋という印象に変わりはなかった。
 理由が明確になった今となっては必然だったのだろうが、考えてみればルークほどの地位の人間に、これらは不相応な部屋だった。
 入り口付近の兵士が一礼したのを見届けて、ナタリアは勢いよくその部屋へと足を踏み入れた。ここはもう閉ざされた場所ではない。
「……はぁ」
「まぁ、なんですのルーク? 私を見るなりため息をつくなんて失礼ですわよ」
 目じりを下げて今の心情を露にしている。ナタリアは腰に手を当て前かがみになってルークを睨みつけた。
「だって、この服面倒くせーんだよ。脱ぐのも着るのも」
 世話係がやったのだろうか、いつもより綺麗にされた髪を左手で触りながらルークはまたひとつため息をつく。
 そういえば、一度だけ子爵の服を着たまま戦闘をしてしまい、もったいないと怒られたことがあったと思い返す。そのときルークは汚れたら捨てればいいと吐き捨てていたけれど、どうやらしっかりと持っていたらしい。
 派手でもなく、かといって質素でもない調和のとれたデザイン。きっとアニスがいうように最高級の布を使用しているだろう。ナタリアは数歩ほどルークに近づいて、自分の口元に手をやり笑う。
「せっかくお父様が用意してくださったんですからそう仰らずに。似合ってますわよ?」
「……分かってるよ」
 小さく返されたルークの言葉が前半部分の返答だと分かり、ナタリアは満足して頷いてみせた。
「でしたら今日は、ファブレ家の名に恥じぬような対応をお願いしますわよ」
「げ、そんなの分かんねーよ」
 ナタリアの一言に怯んだようにルークは口を尖らせる。ルークは公式の場に出たことはない。いきなり言われても困るのもナタリアは分かっていたが、格好はしっかりしているし目鼻立ちも悪くない。それにも増して紅い髪が目立つだろう彼は、今までと同様そんなことに興味が全くないらしく、背を丸めながら自室を出ようと歩き出した。
「ルークお待ちになって! 女性をエスコートするのが当然でなくて?」
 振り返って呼び止めたナタリアに、ルークは慌てて駆け寄った。
「なんか……俺じゃなくてガイが出ればいい気がしてきた」
「あ・な・た・が! ファブレ子爵ですのよ!」
 女性の扱いに手馴れているようにみえるのに女性恐怖症の親友の名を出して、未だ顔を下げてぶつぶつ言っているルークを睨むと、今度こそ諦めたのか右手をナタリアへと向ける。
 それはナタリアが今まで差し出された誰よりもぎこちないものだったが、その手は誰よりも暖かいような気がした。

 部屋から出る直前に再度足を止めたルークにナタリアは首を傾げた。
 ここは見張りの兵士もいない場所なのに、酷く小さな声が聞こえる。
「ナタリア、ごめんな。……俺で」
「あら、貴方もティアの方が良かったじゃありませんの?」
 真顔で返すと、驚いて顔を上げたルークはどうしてか顔が少し紅かった。
「なっ! お、俺は……」
「貴方は私の大切な幼馴染ですわ。それにファブレ子爵を貰ったのは、貴方ですのよ? ガイでも……ましてはアッシュでもありませんわ」
 くすくすと笑うと、うん、と肯定の声が聞こえた。
 ルークは子爵を貰って嬉しいなんて思っていないのは知っていた。けれど陛下、ルークにとっての叔父の配慮が嬉しいはずであってほしいとナタリアは思う。
「それにまたいつか。戦いが終わったときに貴方とアッシュ、二人で行えば良いだけの話ですわ」


 目を閉じて想う。
 ガイとルークと、アッシュ。大切な大好きな幼馴染がみんなで祝えれば良い。それに今回は出られなかったけれど、きっと今は街でそれぞれ楽しんでいるだろう仲間がいれば言うことはない。
 ルークは生きている。アッシュも生きている。もう誰かが犠牲になるなんてことはない。
 アッシュとルークが2人でキムラスカを支えて自分も手伝って、マルクトにも、どこにも負けない国民が幸せに思える国を造ろう、国を変えよう。それは幼い頃にあの人と約束したものでありながら、何度も捨てかけた今となってはとても、とても楽しみな未来。それは夢なんかでは決してない。
 部屋から出たときに投げかけた言葉にルークは一瞬止まり、その後にナタリアに向けて小さく笑った。

 長い道を歩く、数ヶ月前とも数十年前とも違う。もう追いかけることができないわけでも、追いつけない距離でもなかった。


「ナタリア、     」
 会場に入る前に言われた小さな言葉は、部屋の向こうにいる人たちが放ったであろう拍手とともにかき消された。
「ルーク、なにか仰って?」
「——なんでもない。……行きますか、ナタリア姫」
 もう一度、ゆっくりと手を添えられた仕草は先とは違って、まるで手本の流れだった。流石にガイが何年も一緒にいただけのことはあると思いながらも、それでもやっぱり似合わないとナタリアは苦笑する。それ気づいたルークも照れと困惑を混ぜた笑みを漏らした。
 そんなやり取りがとても嬉しくて、なによりも彼が、彼らが生きている現実がなによりも嬉しくて震えそうな手をルークに委ねる。懐かしいような初めて触れるようなそれは、やはり暖かい手だった。
 ああ、きっとこれでなにもかもうまく良く。





 動揺の色は表情として、単純な驚きのそれと大差はなかった。伝えられない謝罪の言葉。彼の微かな変化。彼女はまだ何も知らなかった。

「ナタリア、ごめんな。でもアイツだけは帰すから、返すから」

ラスト・イデア