膨大といっても差し支えない量の書類を片付けて、アニスは硬くなった体をほぐすように伸びをした。いくら教団を立て直すためとはいえ、長々と書かれた文面の最後に自分の名前を記す作業ばかりでは流石に退屈だった。
アニスは一般兵ではまず与えられない執務室を出て、一番近くの外へと続くまるで迷路のような道を歩いた。ダアト内は基本的に静かな物々しい雰囲気に包まれているが、十分ほど歩いて外への通路を開けば豊かな緑が見え、木漏れ日は疲れきっていた目を癒してくれる。そんな肩の力を抜いて歩けるところでアニスの良く知れた人が転寝をしていた。そこは庭のようで、外から見れば絶対に分かるはずもない区切られた場所だった。
「あーもうフローリアンってば! こんなところじゃ風邪引くのにぃ」
驚いても最後にはくすりと、呆れを混ぜた笑みを声に乗せた。
そうでなくても彼はかつての最高権力者の生き写し。
たとえ世界が変わり今までの制度が一変したとしても、それを受け入れることができない者がいるのも確かだ。アニスたちが壊したものは何百年も前からの世界の理だった。それに反抗する者の目的に利用される可能性が十二分にあるのが、今まさに寝息を立てている彼なのだ。
すやすやと彼が採ったのだろうか一輪の花を持ち、寝ている彼はその名のとおり無垢なる者だと名付け親ながらも感心してしまう。
微笑を絶やさずに寝ている。まるで周りの風景に好かれているようであり、世界の幸せを凝縮したような微笑み。
「……ほんと、そっくり」
思わず呟いた言葉が、自分から発したものだと理解するのに時間を要した。少しだけ自分の笑みが凍った感覚が襲う。
彼はかつての最高権力者の生き写し。
けれどアニスの知る人もまた、かつての最高権力者の生き写しだった。
限られた小さなこの庭に、幸せそうに眠る彼はまるでもう戻らないあの人そのもののような気さえしてしまう。そしてそれは違うのだと心から理解している。
現実に過ごした時間は心の中に掬う割合とは比例しない。
偶然が重なり旅をしたあの時間は、終わったあとに過ごした時間のほうが長くなっても、アニスたちにとってはそれらが心の多くを占めている。最後の消化不良のような別れと曖昧な約束とがあるのも理由の一つなのだけれど。
天秤にかけた。
どうしても守りたいものがあったから、それを守るために他のものを全て捨ててきた。
秤にかけた片方の天秤だけが、いつも重要で重かったはずだった。
けれどいつからかその天秤は大きく揺れて、ついには同じほどの重さになってしまった。
あれは秤にかけてはいけない天秤だったのに。
そう、似ているのは当たり前。
姿も声もそれら総てがあの人そのもの。
いつのまにか大切になって、それでも守りきれずに天秤から溢した唯一の人。
同じ姿をしていても、同じ声をしていても、同じように自分に笑いかけてくれても、あの人と彼は違う人。彼はフローリアンという存在。
赤毛の青年がそうであったように、緑の青年がそうであったように。
嫌になるくらいにそれを知っている。
「ん……あれ、アニス?」
「おはよう。もう、こんなところで寝ちゃ駄目だよ」
まだ覚醒しきれずにゆっくりと起き上がるのを見て、アニスは朗らかに笑いかけた。フローリアンは嬉しそうに謝った後に、急に思い出したように立ち上がった。
「お仕事終わったんだね、お疲れさま。ここで綺麗な花見つけたんだ。アニスにあげる! ……お金のほうが良かった?」
透き通るような笑みと花をくれた温かい手が、アニスの心を優しく締め付ける。それは決して苦しいという感情だけではなかった。
「ありがとう。アニスちゃんはお金もお花も大好きだよ!」
「お金のほうがでしょ? でもいつもありがとうアニス」
無垢な彼に向ける笑顔は偽りなんかじゃない。
こんな穏やかな時間が辛いわけがない。悲しいはずがない。
愛おしいと、思える、けれど。
預言の無い今に、未来が変えられるというのなら。
大切な人と会えないのはとても辛いから、そんな想いは私だけで十分だから。
やさしい、やさしい、彼が、あの人が、優しいと言ったあの青年を。
どうかどうか、戻ってきてほしいと。
信じても叶えてくれない神様よりも、あなたに願ってもいいですか?
きらきらと光るものがある。
心にじんわりと痛むものがある。
きっと忘れることはないけれど。
自分の罪を忘れることもないけれど。
イオン様。
それでも私はあなたが好きでした。