小さな猫を見つけたのは買い物当番のときだった。やわらかい白い毛の猫は目線を合わせると、その場に立ち止まった。
 可愛い、と呟くとにゃあと鳴き声がした。そんな様子に思わず頬が緩む。野良猫なのだろうか、鈴もリボンもつけていないのに毛並みはとても綺麗でこれっぽっちも汚れてはいなかった。
 ――猫は死に場所を選ぶことがあるんだって
 頭から声がして思わず振り返ってしまった。けれどそれは記憶の中の言葉で、後ろには誰も立っていなかった。
 先ほどの猫の鳴き声が聞こえて首を回すと、猫はまだその場所にいた。大きな愛らしい瞳の中に自分が映った。
 この猫もいつかは命の終わりをどこかで迎える。そんなときに、どこで迎えようかと考えるのだろうか。自分の最期を自分だけがいる場所で実感して、ゆっくりと、ひっそりと、でも確実に終わりを告げるのだろうか。
 彼はそんな死を望んでいるのだろうか。
 見つめていた猫に居たたまれなくなって視線を下にずらした。途端、失敗だったと気づいた。
 重力に促されて涙が出そうになる。泣く必要なんかない。だってこの猫はまだ生きていて元気で、そんな先のことなんて考える必要はない。
 まだ見えない先のことを考えて悲しくなるなら、今を幸せだと感じて生きたほうが良いに決まっている。
 猫はゆっくり目線をずらして先の方向を向いてしまった。ティアは小さく声を出したが聞こえなかったのかそのまま歩き出した。もうきっと振り返りはしないのだろう。そうしてあの猫はまたどこかで生きていくのだろう。

 ――俺が瘴気を、

 また頭から声がする。けれど今度は珍しいものでもなかった、最近言ったルークの言葉、その一連の出来事がずっと頭の中で流れている。もう聞こえなくなってもいいはずなのに。
 答えが分かっているはずの質問もそれでも返したやさしい答えも。どれもどれもが残酷だった。自分の死に場所も決められず、それどころかそれに伴う犠牲も連なって逝かなければならないと宣告された彼はいったい何を思っていたんだろう。
 告げたい言葉はある。
 確かにあるのに、そんな無数の言葉はみんなみんな空気に混じることなく胸の中で四散する。ついには、何を言いたかったのかも分からなくなった。何を言えば彼の気持ちが少しは軽くなるのか、何を伝えれば思いとどまってくれるのか、そんなことは決して言えないし言っても無駄なのだろう。
 私を励ましてくれたのに。
 汚れた瘴気が体に溜まっていく、体調がだんだんと悪くなっていく。言いようのない不安は大丈夫、と仲間と自分自身に言い聞かせた。彼はそんな私に一番の励ましをくれたのだ。どうしようもないことを知っていても、不安が少しだけ払拭した気がした。だから今度は私の番、と思ったのに。

 彼が生きてるんだと、レプリカが消えても彼を確認できたとき、それはどれほど嬉しかっただろう。どんな経緯であれ今を生きているルークにだって言いたことがある。けれど結局口に出るのは小言ばかりで、彼に素直な感想なんてほとんど言えたためしがない。
 ため息をつくと不意に肩を触られた。相手の気配が読み取れなかったのは意識がどこかへ向いていたからか、それとも相手が相当の人物だからか、そう考えながら勢いよく立ち上がって振り返れば紛れもない彼が立っていた。
「大丈夫かよ、お前ずっと座りっぱなしだったし。なんか落としたとか? それとも調子悪いのか?」
「そうじゃないのよ。違うの。猫が」
 猫を見ていた。そう告げようとして口ごもる。もう猫はどこにもいなかった。
「猫? まさか猫見つめててぼーっとしてたとか?」
 当たっているようで実はほとんど当たっていない、当たってほしくないところが完全に外れていた。少し安堵して頷く。
「……ええ。こそれより貴方ちゃんと休んだの? 大佐になにか言われるわよ」
「っはは。ああ、そうだな、でもちゃんと寝たぜ?」
 瘴気の中和という大仕事の直後、漫然な状態であると考えてよい。結局ベルケンドにすぐに行くよりかはと、近くの街に主にルークを休ませるために、一泊することになった。
「あら……ルーク、その仔は?」
「さぁ? さっきから纏わりついてくんの。ブタザルみてぇ」
 困ったように下を向くと足元に猫がいた。間違いない、先ほどの猫だ。ルークの足に猫は頬を摺り寄せていた。親猫に会ったように嬉しそうに見えた。
 ――猫は死に場所を選ぶことがあるんだって
 先ほどの声が反芻する。いつもだったら微笑ましい、羨ましいくらいな光景なはずなのに。
 目を合わせれば立ち止まってくれたけれど、あんな風に擦り寄ってはくれなかった猫。ルークにだけ懐いている気がして少しだけ寒気がする。
「あーもう、なんだよこの猫。飼い猫か?」
「だ、だめ!」
「へ? どうしたんだよティア。べ、別にブタザルみたいにしねぇって」
 猫を触ろうとしたルークを思わず大きな声で制止させてしまってすぐに、ごめんなさいと謝った。彼はいつもミュウにしているように猫を乱暴に扱うのだと思ったことへの謝罪だと思ったらしい。誤解のまま話が進んでいこうとしたとき、猫がするりとルークから離れてしまう。
「……あれ、どっかいっちまった」
 ティアの声を聞いたからか、猫は走り去ってしまった。悪いことをしてしまったと考えながらも少しだけほっとして息をついた。ルークはそんなティアを訝しげに見つめていた。





「大佐、宿取れましたよ」
「ありがとうございます」
 アニスの声で窓を見つめていたティアは振り返ると、ジェイドと二人で今日の予定をまとめていた。天候や準備が原因でベルケンドへ向かう時間が遅れてしまい、今日はここで宿を取って今後のことを決めることにした。
 あたりを見回すと、ガイは珍しく自分と同じように物思いに耽っている。ナタリアは椅子に座りながら目の前で組んだ手をじっと見つめていた。ミュウもゆらゆらと身体を揺らしながら外を見つめている。アニスとジェイドはそれきりまた喋らなくなり、当然沈黙が流れる。ルークが一人で診てもらうと言ってからこんな沈黙が続いている。
 また窓を見つめる。空は青く、瘴気が広がって混沌としていた空の色を忘れるくらいに澄み切っていた。
「……あ」
 それからまもなくルークが見えた。一度立ち止まって紅い髪が先ほどのティアと同じように空を見上げた。自然な流れだがそんなルークをティアは知らない。彼は前を見て進む人だから、空を見上げるルークはあまり印象になかった。
「みんな。ルークが帰ってきた!」
 ルークがまたこちらに向かってきたときにアニスの声が聞こえた。目線は窓へ向けたまま少し頷いた。ガイがルークを呼ぶために手を振る。ルークはそれに応じるように手を振った。窓越しに見えるルークはいつもの顔で笑っている。
 ガイはそのまま手を振り続け、アニスもそれに倣う。ナタリアは立ち上がり、ジェイドと共にみんな一箇所に集まっていく。


 あれからあの猫には会っていない。つい先日の話で、どうしてあんなに不吉なことを思ったのか分からない。見過ごしそうな普通の出来事なはずなのに。
(杞憂よ、そうに決まってる。だって彼は生きてるもの。笑ってるもの)
 そんな祈りにも似た思いでルークがドアを開けるのを待った。
 私はなにかに、誰かに祈る。
 ルークが笑った世界が続くように、貴方がここにいるように、そんな答えが彼の口から出るように。

猫の居場所