机上の紙は二枚、安堵の息を吐く。
 内容は外見から性格的特徴に始まり、知り得る限り書かれた出生から現在までの軌跡。

 書類はこうして定期的に送られて来る。最初はそれこそお気に入りの音機関の辞書よりも分厚く、目を通すだけで日付が変わることが圧倒的だった。それがここ数年で皆無とはいかなくてもここまで激減したことについて親友の青年を褒め称えたくなる。昔のように頭を撫でたら怒るだろうかと、容易に想像できた顔に思わず苦笑する。
 分担していたレプリカの保護活動は彼が帰ってきたことで目まぐるしく改善されていった。一人まるまるその分野を請け負ったにしても余りあるスピードに、眼鏡をかけた一人の仲間は笑顔で貴方が手を抜いていたのではないですか、と注意勧告のような口調で眼鏡をかけ直し言い放ってくれた。周りの努力も重々承知だろうからもっと素直に青年を褒めたらいいと思ったが、実行されたらそれはそれで怖いので口に出すことはしなかった。
 レプリカの保護はこの世界の問題だ。そしてこの世界のためにと絶望に突き落とした同じ魂を持つ違う人達のなによりの願いだ。だからこそ二大国家の指導者は互いにこれらの問題に力を注ぎ、全面的に協力をしてくれている。

 かさりと一枚の紙面を手にとる。保護されたレプリカはこうして書類上にまとめられていく。
 今回のレプリカは被験者と関係のない場所にいた。きっと運が良かったのだろう、こちらが動く前に周囲の人は優しく彼を扱ったらしい。周囲の被験者と言われるべき人々の真情は判らない。何かに利用しようしたか政府に媚を売ろうとしたか、一瞬考えがよぎる。最低だと思われるその思考はけれど現実によくあることだった。
 今回保護されたレプリカは一度だけ会ったことがある。保護された直前、親友と一緒にいるところを見た。綺麗な瞳をしていたと思う。書類上を見る限り彼は七歳らしい。なるほど、時間的にも問題はないと書類を手から放す。

 七年。まだ、七年。だった、七年。もう、七年。

 本来なら親友である赤毛の青年だって同じはずだったのだろうか。青年の七年に課せられた課題というべき使命がなかったとしたら。
 生まれたての魂と成長しきった身体。その通常ではありえない何ともいえない不安定感は、物理的とはまた違う感覚的な隙間を思わせた。その隙間に親友はあの強烈な濃縮した二年間を注ぎ込まれ、そして注ぎ込んだのだ。もう今となっては身体年齢と精神年齢はあまり差がみられない。
 少し前にそんなことを仄めかすと「初めて出会ったときに同年代だと思われていなかったらきっと俺の隣にティアはいないからこれはこれでいいと思う」そう言って笑った。けれど彼自身すら覚えていないあの七年間を彼が生まれ世界を知るまでを知っているはずの自分は幾度となくその笑顔で胸が締め付けられる。悲しいも苦しいも切ないも嬉しいもない、ただ懐かしんでしまいそうな過去の温かみに触れるような、けれど戻りたくないあいまいな感情で胸が痛む。

 保護したレプリカと一緒にいたところに立ち会ったとき、親友は怖くないから大丈夫だと言って自分を紹介した。慈愛に満ちた笑顔を向けた青年は知っていたのだろうか、人生で一番の激動の瞬間を罪を負い世界で独りきりになったときと、保護されたレプリカの少年が同じ年だったということを。
 ああ、そうだ。あの時だってあの前だって彼は傍にいる人に笑っていてほしかったのかもしれない。企みも憎悪もない只の笑顔で接してほしかったのかもしれない。誰一人してくれなかったことを自分がするべきだと思っているのかもしれない。

 詳細が書かれた資料に目を通しながらも思考は虚空をさ迷ったままだ。
 あの純粋な瞳にお前のせいだ、最低だ、失望した、と言えるのだろうか。今の自分には言えないとは思うけれど。
 時間は流れる。ぱりぱりと自分の何かを剥がして別の何かを吸収してくっ付けて。時は過ぎていく。だからあのときの気持ちを再現できることはもうできない。
 あの時の青年は酷く不安定でその存在すらも不安定すぎて、けれど自分もそうだったのだ。憎みきることも信用しきることもできず、弱くて幼くて完璧には程遠い人間だった。あそこに居合わせた人間すべてが様々なことに振り回されて不安定だったのだ。今だってきっと。

 あのレプリカはその魂と身体の差になにを生めるのだろう、どうせなら幸せと優しさで埋め尽くしてしまえばいいのだけれど。自分がその他多くの他者とは違った存在であると知ったとき、その名が両親というべき存在から貰ったものではないと知り、両親というものすらないと知ったとき。自分の身体と思考に隔たりができたとき。その時、もしできるなら親友のように手助けができたらいい。青年に誰より近くにいたくせにできなかった自分は、自己満足に近い謝罪に似ていると思うのだろうけれど、やらないよりずっといいと他ならぬ親友が教えてくれたから。
 一緒に旅をしていた特に親友を見ていた彼女に久しぶりに会ったとき、彼は張り切りすぎて周りを見ないから心配だとため息を吐いた。今度会うときにでも注意を促して、さり気なく一度ごめんと伝えてみようか。何に対して謝罪なのか自分ですら分からないから、伝えたところで青年も理解できないだろうけど、きっとあの笑顔を携えてくるに違いない。嬉しく困ったような笑顔は、もう純粋無垢でもないはずなのに他の言葉が当てはまらない。
 あのレプリカの少年の瞳を思い出すと、親友と仲間の一人と暮らしている優しい少年とそれと同じ存在で違う少年をも思い出す。ちぐはぐな存在たちはけれどこうして心に残り、彼らは記憶の中に笑っているだけでも、何かをずっと問いかけていくのだ。

 彼が繋ぎとめたものは細いのに強烈な光を放ってきらきらと光り続けている。それに縋りたくなる。縋って縋って。そうして世界は救われ、次に青年が繋ぐ物もまたきらきらと光るのだ。
 あの箱庭のような屋敷の中でさえそうだったように俺を救い出していく。いつだって。いつだって。

不統一脳内論