確定されたものがないならいっそ、


 くぐもった声で謝りたいのだろう、ルークはばつが悪そうに笑顔を作った。けれどその笑顔がティアの心情を逆撫でた、それはそれは冷たい目をしているという自覚がある。
「まったく、体調管理がままならない状況で一体対多数の揉め事に身を投じるなんて馬鹿げてるわ」
「……うん、悪かったって」
 ルークの口元がゆるく弧を描いているのは、ティア自身の声がルークの声以上に辛そうに聞こえたからだ。
 ティアが、ルークが倒れたという報告を受けたのは明朝のこと。夕方過ぎに倒れていながらも生きてると目の前で話ができるようになるまで心底その情報を信じることすらできなかった。
 いくらルークの他の者に比べ腕が立つとはいえ、彼はティアのように集中的に傷を癒す術を持っていない。特に世界中を走り回っている最中での、まして満足の行く判断ができない体調下での争いは無茶と言い切れるものだ。
「でもさすがにもうちょい頑張れると思ったんだけどなー」
「それで貴方が倒れたら意味がないわ、ちゃんと休んで頂戴」
 なんとか争いを収められただけでも御の字だというのに、倒れたことに対して不満でもあるらしいルークに頭を抱えるようにティアが反論すれば彼はまた申し訳なさそうに笑う。
 その笑顔はティアを辛くさせるくせに、少しだけ、ほんの少しだけ安堵をもたらせてくれるものだ。冷たいと思わすように睨んでいたはずの目は、きっともう弱弱しい光しか発せてはいない。
「今日のうちに全部が片付くはずないわ。明日にまわすことも重要よ。もっと冷静に――……?」
 想いをできるだけ表情に出さないようにして続けてみると、ルークの笑っていた顔が少しだけ曇ったのが見えた。
 怪訝そうに首を傾げていると熱を冷ます為に乗せられていたタオルを外してルークは起き上がってこちらに目を向ける。
「どうしたの? 寝ていないと治らないわよ」
「明日かぁ……」
 語尾が少しだけ延びているような口調なのは、風邪やら戦闘やらで疲れ果てているからなのかもしれない。けれど目だけはしっかりとこちらを向いてルークは確認するようにティアをまっすぐ見つめるためになんだか居たたまれない気分になった。
「そっか、だよな。そうだよな」
 彼の嬉しそうな笑顔にティアは今度こそたじろいで少し顔を背けた。何故だか紅くなる頬に手をやりながらもティアは顔を上げる。
 一人納得したらしいルークはうん、と強く頷いてそうして照れるようにまた笑った。それにつられて笑いそうになったティアは次に発せられた言葉で頭を真っ白くせざる終えなくなる。
「……俺さ、旅の最後の頃はずっと昨日になればいいって思ってた」

 ルークが帰ってきたときから旅の終わりの話はあまりしていない。話すときはいつだってふざけるような内容ばかりだった。それはルーク自身が自分が帰ってきた理由が理解しきれないせいなのかもしれない。そうでなくてもあの旅の間は一概に“良い思い出”といえるものでは決してなかったのだから。
 旅の間のように毎日顔をあわせる暇なんてなく、数えるほどしかあっていないかもしれないけれど、それでも短くは無い時間の間に彼はあの旅の最期の真面目な感想なんていう事はなかった。
 今が初めてだと思えるくらいに。
「昨日に?」
「うん。……昨日に戻ればその日は絶対に消えないって分かるだろ?」
 ルークが真剣に話をするときの声はいつもより低くて夜が始まりかけた鋭い空気にもよく振動する。
「昨日に戻れれば今日は大丈夫って思えるのになぁ、って馬鹿みたいだろ? 長く感じたって短く感じたって一日の時間は変わらないのに」
 昔懐かしい過去を思い返すように笑うルークにティアはなんて言葉をかけていいかと口を閉じてしまった。
 ――そんなに嬉しそうにそんな辛い過去を言うのは何故?
「どうして」
 けれどずっと黙っているわけにもかずに、意を決して顔色を伺おうと言葉を選びながら目線を合わせるとそのまま手が伸ばされてティアの頭に触れる。
「ティアはさ、幸せか?」
 先ほどの口調とは打って変わった、優しい声は困ったように囁いた。それらの言葉のカケラは決して負の感情を表しているわけでもなく感想を述べるように暖かい。そんな言葉の隅々つかるようにティアは体が温かくなるのを感じる。
 唐突すぎる質問は彼との会話では珍しくなかったけれど、自分の頭にのせられる手も相まって混乱しそうな頭の中でティアは一つだけ分かった事があった。ルークが帰ってきてから少しだけれど、ずっと感じていたものが今やっと確信となった。
 ルークは何かを引いて自分と接していた、ということに。

 その理由に気付けたのはきっとさっきの言葉の一端。多分彼は願ってくれていたのだ、自分達が幸せな世界で幸せに暮らしてくれればいいと。
 そこにルークのいない、そんな世界で。

 けれどきっとジェイドでさえ完全には説明できない経緯を経て、こうしてルークは帰ってきてくれた。
「ええ……私は幸せ、よ? そういう貴方は?」
「俺? そうだなぁ、明日から頑張ればいいよな。そうだよな」
 トサリと聞こえて暖かかった温度が消えてルークはうんうん、と頷いてそれはそれは嬉しそうに笑ってそのまま眠り込んでいく。
 聞きたかった言葉とは少し食い違った返答も、結局彼がいるという事実だけで嬉しい気がしてしまってティアは少し微笑んだ。外されたタオルを持ち上げてルークの額に乗せる。
 そういえば、と思う。こうして誰かを看ることもあったけれど、誰かを看病して目を開けていつものように笑って、そうして話が出来るのを心待ちにする気持ちをティアは初めて感じたかもしれなかった。
「だから、早く良くなってね、ルーク」
 もう一度名前を呼べば彼がまた少しだけ穏やかに笑ったような気がした。それを確認してティアは二度三度振り返り、座っている椅子の位置をルークから少しだけ遠ざける。
 久々に唱えた回復の譜術はもう効かないかもしれないけれど、いつか彼が好きだと言ってくれた歌をうたう口実にもなるのだし。
 そうくすりと笑って音を紡いでいく。


 彼が帰ってきた世界は、平和を絵に描いた、なんて言い表せるものではなかった。大きな問題が片付いて万事うまくいくものなんかではない、問題は次々と続発しティアもルークも仲間も走り回っている状況だ。
 それでもルークがいる、それだけで違う世界のようだった。
 問題はある、限りなくある。けれど幸せだって限りなく振ってくれる世界が今目の前に広がっている。

 大袈裟ではなく、だからこそ幸せなのだと分ってくれるだろうか。
 すぐに分かってくれなくたっていい、いつになったっていい、明日はちゃんと貴方にも訪れると思えるから。





***




 日差しの強さに目を開けてみれば、おぼろげになっているがすぐに昨日の出来事を思い返して、自分の額にあるタオルを手にとって看病してくれていたのだろう彼女を思い出した。

 いつなにがあるか分からない世の中だけれど、不安がすべて払拭されたとはいいがたいけれど。頑張らないといけないことは山のようだけれど。
 刻々と消滅が近づいているあの時よりもずっと明日を信じられる。開いた手のひらが淡い光を放って粒となっていく夢をみても、懐かしい夢だったと笑って言える日がくるだろう明日。
(でも今日だけは昨日に戻ってもいいかな、ティアに会えるから)
 心の中で一度思っておいたその思考回路に自分で顔を紅く染めていると、ティアが名前を呼んでドアをノックする音が聞こえた。
 まぁいっか、と呟いて返事をすればすぐに扉を開けるだろう彼女を待ち構える。
 まずは笑ってありがとうと言って。
 そして。

巻き戻し未来