samsara
 家の扉が閉まる音を聞いて外へ歩き出した。誰かが送り出す言葉をこの家で聞いた記憶なんて本当に薄れているけれど、今の自分にとっては都合がいいものだった。
 高い陽が光を射してくる。それを避けるように家と家の間の日陰の地べたに座る。夏の日差しにも負けないくらいに鋭い明るさは、影となったコンクリートまでは届かない。
「あれ、スパーダ兄ちゃんやん、こんなところでどないしたん?」
 ガサリ、と草の動く音と聞きなれた声。エルマーナは隣に座って前と変わらず人懐っこい笑顔を浮かべる。懐かしい、とも久し振り、とも言えないような時間の間で曖昧な挨拶を交わす。訝しげな声が聞こえたのはそのすぐ後だった。
「ところでなんなんその荷物? どっか行くん?」
「おう」
「……さすがに少なすぎるんとちゃう?」
 腰に携えた二振りの剣と背中に引っかけた布袋一つを指して笑う。旅に出る、というほど大げさなものでもないと思うのだけれど、エルマーナは短い返答にそれを汲み取ったらしかった。
「どーせこれからアンジュに会って、リカルドとイリアに会って、その後に行くつもりだからな。道具なんてそんとき見つけりゃいいんだよ」
「スパーダ兄ちゃんは支度手伝い全然やらんかったし、勝手知らんのも無理ないなぁ」
「うっせ」
 悪態をついて見せてもさして気にも止めないエルマーナは前世から変わらない。ひとりで守りひとりで消えていく痛みを携えた瞳。短い間の旅の仲間の全員にある前世の記憶、それは余計な痛みと後悔を引き連れてくれた。だからこそ自分は今度こそ誰かを裏切ることはしない、なんて覚悟もあったのだけれど。

「んじゃルカんところ行ったら出かけるとするか」
 立ち上がると日差しが近くなる。エルは見送りをするとルカの家までの道を隣で歩いている。旅をした中で一番足取りが掴めない相手にこうして会えたのは運が良かったのかもしれない。
「スパーダ兄ちゃんおらんくなったら、ルカ兄ちゃん悲しがるで?」
「いや、どっちかってっと悔しがるんじゃねぇの? イリアに俺の方が先に会えるんだからな」
 気弱な少年の、エルマーナの言うルカの顔はすぐに思い出されて思わず吹き出してしまいそうになる。気弱なせいで必要以上に自分を追い詰めていってしまった奴は、それでも今は親友で大剣を持ち上げれば自分の背中を安心して預けられる存在。
「ルカ兄ちゃん、勉強してもうすぐお医者さんになるらしいやん。ウチとしても鼻高々やわ〜」
「どーせ無償で看てもらおうとか考えてんじゃねぇの?」
「いややわぁ、ウチはイリア姉ちゃんと違てそんなケチとちゃうで?」
「んじゃちょっとは安くしてもらうとか」
「そこは当然やろ? ウチには子供がぎょうさんおるんやで」
 背を屈めて何かを企んでいる表情を見つめると、今度こそ吹き出して笑って前を向いた。目の前を突っ切ればもうルカの家はすぐだ。太陽の陽が高くて帽子をかぶりなおす。
 天界でも魔界でもないこの世界で五人とはいつだって変わらない会話を交わせるのだろう。もはや前世なんて関係のなくなった今もその事実だけが何より現実味を帯びていて、不安定な現状の中で酷く頼れるものであることに違いはなかった。



(2009.01.29)

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