「クレスさん!」
「は、はい! ……えっと、ど、どしたの?」
 普段から物腰穏やかといわれるミントが、突然机に音を立てさせて勢いよく立ち上がったものだから、思わずクレスの返答は敬語口調に近くなってしまった。
「二十三回目なんです」
「え、何が?」
 唐突な回数を聞かされてクレスは聞き返す。誕生日でもなんでもない今日とその数字はどうにも結びつかない。するとミントは意を決したような顔で言葉を続ける。
「クレスさんが「困ったなぁ」と仰ってため息を吐いた回数です」


 朝のあいさつから始まって、クレスが外の空気を吸ってくるよと言った時から数え初めたのに、それはあっという間にどんどんと増えていってしまった。
「もしかしてミント、数えてたの?」
「…………」
 私は怒っているんです、と少しでも示したくて無言で頷いてその場に座るとクレスは二十四回目の声を漏らした。
「たまにはお休みになっては如何ですか? その、あまり働き詰めですと体調も悪くなりますし……」
 旅をしていたときからの経験で、無茶をすると決まっているクレスのことだ。いつか倒れてしまうのでは無いかと気が気ではなかった。けれど彼が故郷の村の復興を心の底から願っていることを理解しているミントは、今の今まで止めることすら憚っていたのだ。
「今日は休んでるよ?」
 だからなんとか今まで押さえていた言葉をやっと言えたのに、クレスはよく分からないときょとんとした顔で返される。どうやって言えばいいのだろうかとミントが考え込んでいると背後から気配がした。
「資金分配とにらめっこして悩んでる奴を誰が休んでるって思うんだよ」
「いたっ、チェスター」
 クレスを軽くひじで小突くと、チェスターはミントに向かって困ったような笑みを浮かべる。そのままミントの隣へ行き、差し出したのはいつも通りより多めの食材だった。
「今日は上手くいったからな、ミント頼む」
「うわぁ、ありがとうございます」
 丁寧に礼をして立ち上がるとそのままミントは食材を持つ。季節の食材を見て今日の夕食を考えていると、チェスターがクレスの前に立ってクレスの今回の原因を持ち上げる。
「大体こんなの見てるから休みの日じゃなくなるんだぜ。没収。お前は働きすぎなんだから今日くらいなにもせずにぼーっとしてろ」
「ぼーっとって」
 なにをしたらいいのかなぁ、と考え込んだクレスに苦笑しながらチェスターは続ける。
「そんなことだからミントが心配通り越して怒るんだ」
「チ、チェスターさん! 何言ってるんですか!」
「悪い悪い」
 急に話に出されたミントは一度非難をしてそのまま台所へと向かう。夕食時にはアーチェもそろってくるだろうからと、早めに夕食の下ごしらえを進めておこうと考える。
「今日は早めに作りますからアーチェさん呼んできて下さいね。森へ出かけると仰っていましたから迎えに行ってあげて下さい」
 微笑みながらチェスターへ言ったのは、昨晩の喧嘩の決着がついていなことを知っていたからだった。二人の喧嘩はそれはそれは大事でせっかく直した部分でさえ壊しかねないから、早く仲直りしてもらうに越したことはないのだ。
「なっ! ……分かったよ、ったくミントに言われちゃーな」
「はい、宜しくお願いします」
 大丈夫大丈夫、と楽しそうに箒に乗って出て行ったアーチェに心配いらないとは思うが、チェスターはしぶしぶながらも了承してそのまま部屋を出て行った。もちろん、あの資金分配表を持ったまま。

 トントン、と心地よい音が部屋に鳴り響く。旅が始まる前まで親に頼りきりであまりやっていないかった料理も、クラースに教わるなどして大抵の料理は作れるようになった。
「なにか手伝う?」
 そんな昔を思い出しているといつの間にか隣に居たクレスに現実に戻される。
「だ、大丈夫ですから、クレスさんは休んでいて下さい」
「でもそれじゃミントに悪いよ」
「……いいですから。もうっ、クレスさん!」
 優しすぎるところはクレスは長所でもあるのだが、今日は休んでもらうのが目的である。
 ミントは先まで自分達が座っていた場所を指差してクレスを見上げてみる。抵抗していたクレスも観念したらしく台所をやっとのことで離れてくれた。
「あのさミント、もしかして……怒ってる?」
 一呼吸おいた後に聞こえたクレスの声は少し戸惑っているような音色で、思わずそう誤解させておいたほうが彼の健康面ではいいのかもしれないと思ってしまうほどだった。けれどさすがにそんな嘘が上手くはいかないだろうと少し余白を使ってミントは正直に答える。
「……違います。ただ心配しただけですよ。クレスさん、無茶ばかりなさるんですから」
「その、僕は」
「確かに早く復興できればとは思いますけど、それでクレスさんが倒れたら意味無いじゃないですか」
「あ、その、えっと……ごめん。……ありがとうミント」
 旅が終わってもこの村は安泰というわけではなく、むしろ問題が増えていく一方だった。それを手伝うと決めたのはミント自身の意思であったから出来る限り手伝ってきたつもりであるし、これからも手伝っていきたいと思う。早くクレスが望むような村が出来て、それを見てみたいとも思う。けれどミントはそれ以上にクレスのことが心配だった。
 ミントやアーチェはもちろん、チェスターよりもクレスは輪を掛けて忙しく、ゆっくりと話す時間さえあまりない。今日のような日がまだ明るいうちにこんなにゆっくり喋るというのは久しぶりだった。
 せっかくだからなにか話の話題をクレスに振ろうと振り返ると、彼はそれはそれは楽しそうに笑っている。
「な、なんですか? なんでそんなに笑ってるんですか?」
「いやぁ、嬉しくて」
 クレスは爆笑をなんとか噛み締めてこちらを見ている。首をかしげると彼はそれはそれは絶大な一言を放つ。
「ミントが僕を心配してくれて嬉しいなぁ、と思って」
「……!」
「あ、あれ? どうしたの、ミント」
 冷やかしでもからかいでもないような口調の言葉は、多分本心なのだろう。クレスの優しさは誰にでも向けられるものだから、ミントはそれが少しだけ寂しかったりもする。けれどたまにこんな一言を言ってくれるから恋愛経験が皆無な彼女はほとほと困まってしまう。
「な、なんでもないですから。休んでてください」
 今だって火照った頬を隠すように料理を再開するしかなかった。
「うん。チェスターに資料持ってかれちゃったし、今日は本当なにもしないよ」
 まだ少しだけ笑っているような、嬉しそうな声で言われるとこちらもついつい笑ってしまう。せっかくの休日なのだからとミントは目の前の料理にいつも以上に力を入れようと決めた。

 一通り下ごしらえが終わった今日の夕食は、何時くらいがいいだろうかとクレスに聞こうとして振り返ると彼の姿は見当たらなかった。そのまま探しに行こうとすると、彼はさっきの場所に横たわって寝てしまっていた。
「風邪引いちゃいますよ」
 まだ暖かい季節とはいえ何かを掛けるべきだろうかと、他の部屋から持ってきた布を彼に掛けてみても、そのまま寝息を立てているクレスをミントは見つめる。
 日も沈んでいない時間に寝ている彼が珍しくて、ひょっとしたら出会って初めてかもしれないと新しい発見に頬が緩む。こんな穏やかな寝顔をしていると男の人というよりは男の子という言葉のほうが似合いそうだ、なんて言ったら彼は複雑な顔をするだろうけれど。
「明日からまた、私もお手伝いしますから」
 まだチェスターとアーチェは当分来ないだろう。仲直りしてすぐに喧嘩を始めて現れるだろう二人の声を聞いたらクレスは起きるだろうし、すぐに仲介役に徹さなければならないかもしれない。
 そんな数時間後を予想してくすくすと笑みがこぼれる。
「あと、あまりため息をはかないで下さい。幸せが逃げてしまうといいますから」

 色々なことを乗り越えてきたから、これから訪れる幸せはどうか逃げませんように。そんな自分勝手な願いを持ってしまうのはきっと今だって幸せだと思えるからだ。
 けれどまずはせめて、今日のうちに二十五回目が訪れませんように。

「おやすみなさい、クレスさん」

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