ここぞとばかりに詰まれた資料に腕を組んで向ける視線は、それこそ実力の拮抗している相手に戦いを挑むのと同等かそれ以上だった。
「しいなー、その顔かなり怖いぜ?」
「……なんだい、この量」
 口調とは裏腹に全く怖がっていない唐突の訪問者であるゼロスの言葉をいなして、しいなはそのままどうにか空いている机に自分の額をくっつけた。視界の端で見えたゼロスはしいなの部屋の壁に背中をつけて気楽そうに笑っている。
 資料は文字通り山積みだ。一枚一枚はたいしたものではないが、こうも積み込まれればやる気も減るというものである。けれどこの資料はしいなが目を通したという印がなければ退去してくれない。
「そりゃ事情が事情だからなぁ」
「……そんなことは分かってるさ」

 二人が言う事情というのは大袈裟でもなく世界を揺るがすような事態だ。
 テセアラでもないシルヴァラントでもない、もとの一つの世界に戻ったのはつい最近の出来事だといっていい。それらの事情の中心人物、それこそ当事者としてしいなは数えられている。事後処理はもちろん、今後の決定に関することになるだろうとしいな自身もそれを理解していたけれど、それにしたって。
「初めからこれじゃ、気が滅入るってもんさ」
 顔だけをゼロスに向けたしいなは目を瞑った。大体にして自分は体を動かす方が得意なのだ。自分の任務についての報告書ならともかく、こんな資料を読むのは得意ではない、というよりかほぼ初めてのことだ。しかもその量たるや尋常なものではない。紙が重なりすぎてまるで机ごと押しつぶす気ではないかと真剣に考えてしまうほどだ。
 ため息くらいは出したい。そう思っていたが、ふと客人を見るために突っ伏した体を立て直す。客人とは名ばかりで接待もしてはいないが、気にも留めずないゼロスは相変わらずでこちらをへらへらとしか形容しがたい笑顔でこちらを見ている。
「というかアンタ、こんなところで油売ってていいのかい? あたしなんかよりよっぽど忙しいんだろ」

 神子、ゼロス。
 その肩書きは未だ無くならない。ある意味混沌としている今の現状にゼロスの存在は、どの権力者からみてもやはり重要視すべきものだった。色々な策略や謀略があるなかで、任された責任はしいなの、また世界統合の当事者内で一番であり他を遥かに凌ぐ。
「いやー、おっさん達の姿しか見てないから麗しいしいなの顔を」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
 戸を締め切るようなぴしゃりとした声を投げつける。道端の女性に声を掛けるような口調は、けれどしいなにとってはなんの威力も発揮しない。
 手厳しい、と言いながらゼロスは少し口角を上げた。よく見る笑顔だ。
 けれどその笑顔が真実かどうかは分からない。なにせゼロスは自分とは大きく正反対なほど表情を作るのに長けている。それこそ、自身すら欺いてしまえるほどに。それが羨ましいとはもう言わないけれど、このどっちか分からない笑顔はしいなはあまり好きではない。
「さっさと戻りな、ミズホに来たなんてばれちまったら、あたしにだって火の粉が降ってくるってもんさ。どーせ何も言ってきてないんだろ?」
「さっすがしいな。俺様のことよく分かってるー」
「な、なに言ってんだい」
 怒りで頬がすこし朱が指すのを自覚する。忍びであるのにこの隠せない表情はどうにかならないものかと常々思う。ちょっとしたコンプレックスに近い。それでも頭を抱えながら体勢を持ち直し、立ち上がったしいなはゼロスに詰め寄る。女の自分より綺麗な紅い髪が光を浴びてまるで光っているようだ。
「第一あたしで仕事が溜まっちゃ、ゼロスも大変だろ?」
 元テセアラであるしいなの領域は最終的にゼロスへとまわることが多い。邪魔という理由以外にも、当然ゼロスを多少気遣ったつもりだった。よくも倒れずに雑務をこなしているものだと中々関心してしまうほどには、しいなはゼロスの仕事内容は多少なりとも把握していた。
「しいなが喜ぶだろうなーって思う話題を紹介しにきただけなのに、帰れなんてつれないねぇ」
 けれどそんな気遣いは脆くも霧散してしまうが、そんなことはもうどうでもよかった。一瞬で変化したゼロスの顔はなにか意味深な笑みを浮かべ、またその口調は多少の不安感を感じさせた。
「い……一体なんだい?」

「実は、明日あたりにロイドくんとコレットちゃんがメルトキオに来るんだと。せっかくだし久々に皆で集まろうと思って誘いに来たんだぜ?」

「…………」
 俺様優しいだろ、と続くゼロスの言葉を何度か反芻する。ロイド、コレット、紛れもない仲間の名前だ。
 ――来る? 旅をしている二人が?
「……しいなー?」
 ゼロスが名前を呼んだ瞬間、やっとのことで頭が覚醒する。
「こんのアホ神子! なんでここに来てさっさと言わないんだ!! ああもう、仕事仕上げないと!」
 久しぶりに聞いた仲間の名前でやる気が出てきたしいなはそのまま机へと向かう。頭を叩かれたゼロスは帰るわけでもなく座ったままにペンの速度が上がったしいなを笑いながら見つめた。
「俺様が来た時と反応が違いすぎねぇ?」
「うるさいね、ロイドとコレットは旅に出てるんだからそうそう会えたもんじゃないんだ」
 旅が終わってばらばらになりながらも、皆が皆この新しい世界のために行動をしてると知っている。だからこそしいなが仲間と会える時間は本当に少ないものだった。

 中でもロイドとコレットは旅に出ているためほとんど会えたためしがない。二人の旅は楽しいことだけではないのだろうけれど、それでもコレットはきっと嬉しそうに笑っているのだろう。それだけでしいなは嬉しいものだった。あんなにか細くて優しくて可愛いくて強い少女が幸せになれるのなら、ほんの少しだけ根付いた自分の気持ちなんてコレットを想う気持ちの方が強くなって消えていくのを感じたのだ。
「しいなはお人よしだなぁ」
 しいなが振り向くとゼロスが真顔でそう言ったのが見えた。
 旅の途中のこちらの心情はそれなりに知っているのは分かっていたけど、本当にどこまで理解しているのか、怒りより呆れてしまってしいなは笑う。
「いいだろ、あたしゃコレットが好きなんだよ」
 ロイドの影響力は凄まじく、ゼロスだって変わったと思う。コレットがそうだったように、ゼロスがそうだったように、しいなだってロイドの何かに惹かれたのだ。
 自信満々の笑顔でしいなが返すとゼロスは少し目を見開いて、降参、といったように手を上げた。
「まぁそんな訳だから、仕事仕上げておけよ」
「分かってるさ」
「じゃ、そろそろおいとまするか」
 セレスに好い加減外出禁止くらわれちまうし、と一人呟いて部屋から出て行く後ろ姿を見送ってしいはな笑みが漏れた。最後の声が拗ねている子供のようで、相変わらず妹が絡むとなんとまぁ不器用な男だろうかと苦笑してしまったのだ。

 全てはロイドのお陰なのかもしれない。ロイドがいなければ今になって二人で話すことはなかっただろう。初めて会ったときのやりとりからずっとゼロスの本心が見破れていなかったのは悔しかったけれど、今のゼロスが彼の本質であると思える。
 もしかしたらロイドとコレット以上に自分達の変化は遅いのかもしれないけれど。これ以上近づくには更に時間がかかるかもしれないけれど。それでもいい。今のところは。
 明日会えるのだ。皆といったからにはほかにも集まるのだろう。あの仲間達はどうしているだろうか、情報は入っているからきっと元気だろうけど。そう考えるだけで笑顔が広がっていく。最低でも夜には支度ができるようにと考えてしいなは一度胸を張り、資料の山に手をつけた。

adagio