こめかみのあたりを何度か人差し指で揉み込んで眉間にしわを寄せる。
 少しだけ仮眠をしていたのをなんとか思い出して、ぼんやりと上を見上げる。暗い天井と閉鎖された空間で一瞬、今いる場所と時間帯が分からずに辺りを見回す。
「……あ、そっか」
 自分の研究所だと思いだして小さく肩を回して体をほぐす。いい加減煮詰まってきたと、机に散らばった資料を片づけていくとその終わりにタイミング良く、こんこん、とドアの音と自分の名前を呼ぶ声がほぼ同時だった。でもどちらかといえば声のほうが先な気がするけどとは思いながらドアの先を見る。
「ジュード!」
「……あれ?」
 扉から現れたのは最近知り合った、けれど中々深い繋がりになりそうな青年と小さな可愛い女の子。
 それと――そう、つい最近出会った、彼女。
「どうしたの? 何かあった?」
 思わずそう聞いてしまって、ルドガーは困ったように笑みをこぼしながら首を横に振った。それを見てこちらも苦笑を返す。何かあったかなんて、出会って全部が突飛な出来事で続いているようなものだ。
「いや、ただトリグラフに帰ってきたからちょっと顔を見たい、ってエルが」
「なっ、ち、ちがうもん! ルドガーが会いたそうにしてたからエルが言ってあげたんだもん!」
「あはは、ありがとう二人とも。と、ミラ、さんも」
 二人の後を少し離れて歩いている人にも声をかける。少し驚いたように彼女は眼を丸くした。どうしたんだろうと内心首を傾げながらも片づけを終えて三人と対峙する。
「さて、僕の仕事も一段落ついたから、何か手伝うこととかある? よければ僕も同行」
「いや、家で食事を作るから、ジュ―ドが良ければ一緒に食べようかと」
「……あ、そっか。うん。ごちそうになってもいいの?」
「もっちろん!」
 にこにこと笑うエルを見て、また笑顔が浮かぶ。そういえば前にごちそうになる予定の時は、結局有耶無耶になってしまって折角作ってくれたルドガーのご飯を残してしまったのだった。後で謝ったけれど、気にしていないとなんでもない風に首を横に振られて、けれどエルが少し寂しそうな顔をしていたのが分かって、より申し訳なさが倍増したのもつい最近のことだ。
「ありがとう。じゃ、行こうか」
 そう返せば、エルはますます笑顔になって出発だよ、と声をあげた。

 ルドガーの家はバランの近くでありジュードにとってエレンピオスの中でも一番に思い入れのある場所だ。初めて来たときは訳も分からず吃驚し通しで、いろんな、本当にいろんな出来事の場所だった。
「わーい、ルドガーのごっはーん」
 ご機嫌を絵に描いたようなエルの向かいに、ジュードの隣に彼女がいる。少し戸惑ったように思えるのは仕方なかった。だって、彼女はこの世界の人間じゃない。エレンピオスとリーゼマクシアがまだひとつになっていない世界。それどころか、きっとあの世界ではエレンピオスは崩壊し、シェルの中で何も知らずに生きていくだろうリーゼマクシアの人たちの世界のマクスウェル。元、マクスウェルだ。
「ご機嫌だね、エル」
「うん! だってルドガーのご飯は二番目に美味しいもん!」
 確かに美味しい匂いがしている。そういえば自分の作った料理以外の手料理を食べるのは久々だと思っていると隣から、ねぇ、と声をかけられる。
「ジュード、よね?」
「え? うん、そうだけど……どうしたの?」
「その、いつもと雰囲気が違うから」
「雰囲気?」
 なにかいつもと違うだろうかとジュ―ドは首を傾げた。彼女と会った時と殆ど変らない服装であるし、そうでなくてもいつも白衣を着ているから然程変化はないはずなのに、と思考をめぐらす。
「あ! そうだ、ジュード、髪の毛!」
「そう、それよ」
「え、髪の毛? ……っあ」
 エルの声に賛同した彼女を見て、近くの鏡を見つめる。黒髪の髪はまっすぐ下におろされていて、いつもの少しはねたようなそれではない。
「あ……あー、そっか、そういえば」
 仮眠から目が覚めて直ぐにルドガー達が来たので鏡なんて見てもいなかった。昨日はどうせ研究に没頭するだけだからと軽い身支度だけをすませて籠っていたのだ。なんとまぁ無頓着な格好を見られたのだろうかと、少し頬が紅くなる。せっかくそれなりにセットしていたのに。
「ジュードのその髪の毛珍しいけど、いいよね、ね、ミラ」
「え? そ、そうね、たまにはいいんじゃない?」
「…………そう、そっか。ありがとう」
 間違い探しが当たった時のように笑うエルに彼女が頷くのを見て、思わず声が詰まる。

 普段、研究をしている時の髪型はどちらかといえば何も手入れをしていないことのほうが多い。
 髪の毛をセットするようになったのはつい最近だ。レイアとローエンには色気付いているなんて言われてしまったけれど、この髪型はジュードの中では新しい部類。いっそ、今の髪型の方がずっと昔からのもので、それを珍しいと言われるなんて。
(……当たり前だよね)
 だって彼らとはまだ会って間も無い。オリジンの研究をして一年を経って出会った新しい仲間。一年前の時には出会わなかった存在。だからこの髪型なんて知っているはずもない。ルドガーもエルも、そしてなにより彼女も。
 当たり前だ。彼女はこの世界にはいないはずの人間。この世界にいた彼女なら、この姿を見ても疑問は浮かべず、むしろルドガー達が言ういつもの髪型に首を傾げるのかもしれない。少し不思議そうにして、でも、少し変わったのだな、なんて言って笑ってくれるだろうか。
 それを言ってくれるかもしれないのは隣の彼女じゃない。元マクスウェルのミラではない。一年前、ジュード出会ってと旅をしてあのきらきらとした笑みと涙で別れて、それでも繋がっていると信じているマクスウェルのミラだ。
(なんだ、簡単なことじゃないか)
 随分と当たり前のことを飲み込めなくて口の中に転がしていた気分だった。それが今はこんなにすんなりと理解していく。馬鹿だなぁ僕、と声に出さずジュードは呟く。
「ジュード? どうかした?」
 その口の動きに気付いたらしいエルは不思議そうに聞いてくるので、肩を少し竦めて言葉を返す。
「……ううん。研究したままの格好に気付かずルドガーの家にまで来ちゃって恥ずかしいなぁと思っただけだよ」
「ジュードの大切なお仕事なんでしょ? 恥ずかしくないよ」
「うん。ありがとう、エル」
 ジュードの仕事ということで黒匣のことを思い出して、訝しげな顔をしているミラを見て少し申し訳なさそうに笑う。するとミラは少し困ったように顔を俯かせてしまった。やはり、あのミラとは似ても似つかない。

 ジュードの知っているミラは男勝りな喋り方で、意志の強い瞳をしていて、強くて、強すぎるくらいで全てを成し遂げながらもやはり悩んでいた、何よりジュードにとって大切なヒトだった。

 今、隣に居る彼女はミラだ。けれど分史世界のミラだから、ジュードの知るミラではない。だからといって知らないままでいていいはずがない。なにより、分史世界のミラはルドガーとエルと行動を共にしている。つまりは仲間である。ならば、ジュードも仲間になるべきであって、すでに仲間であるはずだ。
 源霊匣の開発。断界殻を破った者の責任。ミラとの約束。全てにおいて逃げるわけにはいかない。ミラの姿をしているからといって目をそらしていいはずがない。
 目を合わせれば分かる。ミラとミラは別者なのだと、こんなにもはっきりと。
「ミラさん。これからよろしくお願いします」
「……え?」
「僕にはやるべきことがあるので手伝える範囲は少ないけど、ルドガーとエルを手伝うつもりだから。ミラさんが二人についていくなら、僕とも、よろしくね」
先ほどと同じような文章を口にして小さく頭を下げると、驚いたような顔はそのままで少し歪められた。
「世界を壊す協力なんてしないわよ。私は……」
 そう吐き捨てるミラはどうしてか傷付いているように見えた。ジュ―ドは静かに頷いて笑みを作る。もう戸惑う感情は無かった。
「それでも一緒にいる以上、よろしく、ミラさん。そうだなぁ、とりあえず」
「?」
「ルドガーのご飯食べよっか」
 出来たぞ、とルドガーの声の後にジュードが放った言葉にミラは少し口を噤んで頷いた。なんとも美味しそうな食事が運ばれてきて、エルがはしゃいでスプーンを手にしたのを見て、ルドガーの食事に興味が湧いたらしかった。
 ジュードの笑みはいつも通りだ。ミラにミラが重なることは殆ど無くなったと分かったのだから。

「わ、美味しいよ、ルドガー。僕なんかより美味いんじゃない?」
「……ま、まぁ確かに美味しいわね」
「ありがとう」
 ジュードとミラの感想を聞いて、照れるように頷いたルドガーの隣で美味しそうに頬張っていたエルはその言葉に目を輝かせる。
「え、ジュードもご飯作れるの!?」
「うん、ルドガーほどじゃないけどね。今度作ろうか? 今回のお礼も兼ねて」
「うん! ジュードの料理も食べたい!」
 ルルに同意を求めるように首を楽しそうに左右に振るエルを見る。
「ルドガーは超えられないと思うけど、頑張るよ」
「いいのか?」
「もちろん、ね、ミラさんも食べてね」
 そう笑みを投げかければミラは小さく頷いた。それを見てジュードも頷き返す。用意された食事を更に口に入れようと頭を下げれば、さらりと黒髪が視界の隅で流れたのを見て自嘲する。
 ミラはミラ、ミラさんはミラさん。そう理解できたきっかけは随分とだらしない理由だったけれど、このままの髪型で会ったらきっとアルヴィンやレイアにからかわれるだろうから。今度はいつ会ってもいいようにちゃんとセットして研究をしようかな、と思いながらルドガーの食事口に入れ続けた。
 その味はとても美味しく、今、この現状と同じようにすんなりと喉に通った。

彼方の違いを述べよ

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