数年の付き合いになった中でも自分と彼はあまり変わらない様に思える。それは彼の対応だったり性格だったりだ。
 素直過ぎる彼は表情筋と感情が直結しているとしか思えず、それはどんなときでも言えた。日常でも戦闘においてもだ。特に後者に関しては相変わらずのもので、元々の許容範囲が半端ないから矢張り勝てそうな気もしない。
 けれどなにより。それよりも。
 彼へと向けられる反応に嫌悪が無くなることは未だ無かった。


「ひっ……」
 小さな悲鳴はすれ違いざまに告げられる。悲鳴なんてものは、自分の意思に関係なく出るものでそれを咎める気はないけれど、その悲鳴の主は少し笑みを見せたから急激に苛立ちが浮かんだ。
「ーーおい、アレ……だろ?」
「隣の奴、よく一緒にいられるよな」
 遠くなる声はそれでも聞こえる。つまりは隣を歩く彼、奥村燐にははっきり聞こえてしまっているということだ。

(一緒に居って何が悪いん? こそこそ陰口したはる相手ん方がよっぽど一緒に居たくないわ)

「? どうしたんだよ志摩。可愛い女の子でも見つけたか?」
「……いや、なんでも。それよか奥村くん、仕事も終わった事やし飯食いに行こうや? あ、なんやったら奥村くんの手料理でもええよなぁ」
「えー……材料買ってねぇよ。どうせならちゃんとした飯食いたいだろ? また今度な」
「ほんまに? 言霊とったさかい、ちゃんと作ってな」
「おう、任せろ」
 約束なと彼は笑う姿はまるで何一つ聞こえていないかのようで、けれどそれは絶対にあり得ないことであったから昔からの疑問が浮かぶ。

 ずっと聞きたいことがあって、けれどそれを口に出すことは憚れた。だってどう返答されても返す言葉なんてないからだ。それでも聞きたいと思うのは、ただの好奇心からくるものなのかもしれないと、そんな自分に嫌気もさすから気にしない様に務めていた。
 はずだったのだけれど。

「なぁ、なんで何も言わへんの」
「へ?」
 間抜けな顔をされたのは、飲み屋だった。結局近くの飲み屋で食事ということになり、酒を飲んで話に花を咲かせていたのだ。酔った勢いで口走ったということにしておいて、さて、話を中断するのもわざとらしいと思いそのまま続ける。
「奥村くん、よお陰でこそこそ言われてるやろ? 奥村くんの性格ならもっと態度にでるかと思ったんやけど、なんでなんも言いまへんの?」
「あー……志摩もいい気分しねーよな、悪い」
「そないゆー意味でなくて……勝手なこという奴にどない思われとっても構へんし。そないやなくて、奥村くんはどない思ってるんかいなと」
 えー、っと言いながら頭をがりがりと掻いて困ったように目線を彷徨わせる。ああ、やっぱりこれは好奇心だけだったのかも知れないとどこかで思う。
「どうって言われてもなぁ、別に特に思わねーな」
「へ? イラつくとかうざいとか殴りたいとかないん? 奥村くんやろ?」
「……お前、俺をどんな風に見てんだよ」
 一度睨むように視線をずらして、んー、と唸る。
「あんま気にしてねーかも。まぁ、本当のことだしな悪魔っつーのも」
「せやかて、奥村くんはちゃんと祓魔師としてやってるやん」
「志摩達がそれ言ってくれんなら充分だぜ。あとマジで気にしてねーんだ」
 確かに始めの頃とかは気になってたけどよ、塾生の時のあんときとか。と付け足されて少し言葉に詰まる。
「なんも……きつくないん?」
 強いといえばいいのだろうか。それとも単純なのだろうか。呆れるよりもいっそ心配になって言えば、燐は少し顔を真顔にして放つ。
「死んでくれ、はキツかった」
「……は? かったって、誰かに言われはったん?」
「うん。雪男に」
 さらりと出た人名に瞠目する。だってその名前は、
「雪男って奥村くんの弟の奥村先生?」
「当たり前だろ。っと、すみません、これもう一つ!」
 右手を挙げて店員を呼ぼうとする燐を志摩は思わず止める。
「ちょ、注文のついでに言わんといて! 兄弟やろ?」
「だからじゃねーの。俺、あいつに色々と捨てさしちまったし。拠り所も夢も全部。あ、でもそれは、俺をどうにかして生かせようとした中での発言だからな。あんま深く考えんなよ」
 そう言われては、志摩は責めることも追求することも出来ない。
 今でも喧嘩をするとはよく聞くし愚痴も聞くけれど、燐はとても“お兄ちゃん”であり、弟である雪男に対して何かと世話を焼く。雪男ももう彼の先生では無くなり、処刑云々の話も無くなってからそれを素直に喜んで受ける姿が増えたように見えた。相変わらず仲の良い兄弟だとしか思わなかったので驚きは隠せない。
「……ほんでもキツかったんやろ」
「そりゃあな。ジジィ……親父が死んで、俺がまともに会話して人間関係築けてたの雪男だけだったからな。唯一俺の事を知ってる家族に言われたら色々と考えるよ」
 思い出を語るように笑う姿に志摩は少し顔を伏せる。

 だってそんな事を言われてるなんて思いもしなかったのだ。
 いくら出来が良くて、天才祓魔師といったからって、双子とはいえ自分だったら弟に教えを乞うなんて考えられない。もちろん不満はよく言っていたけれど、なんだかんだ授業は出ていた燐を志摩は凄いと思っている。
 まして、そんな一言を浴びせられた人だというのなら。
 双子の兄弟だからなのか、それとも言ったのが雪男で言われたのが燐だったからか、その時の状況故なのか。それにしても、そのような台詞を言われてそれを許して余りある思考。一体誰がこの人を悪魔なんて言うんだろう。


 そうして、最近テレビで似たようなことをやっていたからか、昔の授業で習ったことを思い出した。
 人の皮膚は様々な組織が重なっているらしい。表皮の奥に真皮や皮下組織というものがあるのだという。
 表皮は例えば傷を負ってもいつかは再生される。傷もやがて薄くなるとか言っていた気がする。人間の治癒能力は凄まじいのだ。けれど、それ以上の傷を負うと話が違う。深く負った傷を早く治すため、再生するのだがその組織が違うとかなんとか言っていた。あまり正確なことは覚えていないけれど。
(まるで、それみたいや)
 どんな言葉も中傷も傷付かないし気にしないのはというのは、もうずっと前に芯まで傷付いていたからなのかもしれない。その言葉はどれほどの痛みだったのか。本人はそんな事実も昔のことだと気にしていないようだけれど。
 だからそんなに強いのだ。それはいいことなのかは分からないけれど。志摩が聞いた蔑む声なんてものともせず、目もくれない。心に届かないのは初めの方で奥深くまで傷付いてしまったからだとしたら。あの塾生の頃の、青焔魔の落胤と発覚した時の周りの反応や、たった一人の家族で双子の弟の一言で。
 もし、そうだとしたら。


「……悪うかったな。なんか、けったいなこと聞いてしもたみたいで」
 ぐるぐるとした心の思考の中だから、きっと伝わらないだろうその全部に謝ると、ひらひらと手を振っていつも通りの笑みを浮かべる。
「いーよ、別に。祓魔師になってからはさ、雪男も前よりうるさくなくなったし。まだ対等じゃねーけど、そのうち俺は聖騎士になるしな!」
 その言葉に、ああ、変わらないなぁ、と思いながら苦笑しながら苦言を呈す。
「奥村くんの飛び出す癖なくさんと無理やない? 一緒に動くとひやひやすんねん。坊も言うとったで」
 今日の任務だってそうだ。もうちょっと周りを見て欲しい。いくらあの同期の中で格段に強くなっていて、更に強くなるのは分かり切っていても。
「うー……それ雪男やシュラにも言われんだけどさ、俺が出て行った方が絶対いいって。怪我もすぐ治るしさ」
「そーゆー問題ちゃうやろ、まぁ、言うたってどうせまた無茶するんは分かってるけどな」
 呆れた様な口調で言えば、燐は苦笑を返す。
 志摩は勝呂のようにつっかかるように注意はしないけれど、少しふわふわした状態のまま今度こそ酔った勢いのまま告げる。
「覚えときや、なんぼ奥村くんが悪魔でそれが事実やて、俺ら同期は仲間なんやで。そっちの方がよっぽど大事や。さかい奥村くんが傷付いたら見てるこっちも辛いやん。ほんでも率先して傷付つくならそのうち真剣に怒るで」
「し、志摩……」
「子猫さんが」
「えっ、怖っ! なんかある意味雪男より怖い!」
 真顔で告げれば、感動しかけた燐がぶるぶると震えるように顔をひくつかせたあと、くっと可笑しそうに笑った。それはとても嬉しそうな正真正銘の笑顔だ。
 それを見てこっちも笑みが漏れる。
 それがきっかけで笑い話に変わって酒が進む。下らない会話をして今日も無事悪魔と闘って生きて帰ってこれたことを実感して、仲間の皆がそうして生きていることが何よりだった。
 そしてもう随分と痛みに強くなってしまったこの仲間が、痛いとすら感じない痛みをこっちも気にしなくなるくらい、これからずっと幸せになればいいと思う。

「今度は奥村くんの家でご飯なー」
「おー、いいぜ。どうせなら皆呼ぶかぁ? 都合合えばだけど」
「いや、一番忙しいんは奥村くんと先生やろ……」
「あー……いや、雪男には敵わねぇよ、飯ちゃんと食ってかなー弁当持たせられる時は作ってんだけど、流石に毎日じゃねーしなぁ」
「相変わらず仲良ええねぇ。奥村くんはお兄ちゃんやね、本当」
「あ? 当たり前だろ。雪男は俺の弟なんだから」

 そうして、訳が分からないと首を傾げる彼と他の仲間と、空いた時間にはいつでも会えるように連絡が取り合えていたら、それでもう充分だと思うのだ。

心秘の痛み