テスト週間という地獄の日々が始まって部活がなくなるというのは、はっきり言って嬉しくもなんともない期間だ。
 部活がなくて喜んでいる奴、テストが嫌だと嘆く同志。各自各々家やら図書館やらに行く中、廊下で目当ての人を見つけて声をかけた。
「よぉ! 今から帰るのか?」
「切原君」
 振り返ったクラスメイトはいつものような笑顔でこちらを向いた。長めの髪がふわりと揺れる。
「俺も帰るから」
 鞄を肩にかけながら彼女と並ぶと、部活帰りと同じく酷く申し訳なさそうな顔が返ってくる。
「部活ないのにわざわざ送ってもらわなくても……明るいしさ。そうだ、幸村先輩にはちゃんとごまかしとくよ?」
 まるで名案と言わんばかりに手を合わせる彼女に小さくため息を吐いた。
 ごまかし、なんてあの人に通用するわけがないのに。
「それは却下、絶対言うなよ!!」
「……先輩優しいから大丈夫だと思うのに……」
 その優しさは彼女にしか巡ってこないということを、いつか理解してくれるんだろうかと思いながら、前にあった思い出したくもない過去の出来事に鳥肌が立つ。首を大きく横に振って学校を後にした。

 我等テニス部部長は昨年の今ごろ、やっとのことで無事退院して、遺憾無くその影響力を見せ付けていった。
 しかも復帰した時期に行われた学園祭で出会った運営委員をいたく気に入ったらしく、それはそれは珠のように大切にしているのだ。
「第一部長もマネージャーにさせなくてもいいのになぁ」
「私ってそんなに頼りないかな?」
「……そうじゃねぇって」
 酷い、頑張ってるのに。そう少し拗ねてる相手に思わずうなだれる。こんな状況を部長にでも見られたら命がいくらあっても足りない。
「マネージャーとしてはマジで助かってるって。真田副部長にも意見言える奴なんて珍しいし」
「もう、真田先輩はもう副部長じゃないのに」
「だって事あるごとに部長と練習見に来るんだぜ。ったく、これじゃやっと三年になったって自覚がねーよ……」
「あははっ」
 彼女の管理能力は凄い。だからこそ部長も彼女にマネージャーを推したのだろうし、それは分かっている。現に俺が部長となっている以上、彼女の力はそれはそれは頼りにしている。けれどそれ故に困ることだってあるのだ。主な原因としては。
「アンタは鈍いし」
「そりゃたまにテニスボールに躓いたりするけど……」
「いやだからそうじゃねぇって」
 恐ろしいリアクションでほとほと困る。
 彼女は部活内でしっかりしたマネージャーというイメージもあって、外見も相まってちょっと人気があったりする。もちろん学園祭の事情を知っているレギュラーをのぞいて、だ。部長の本当の恐ろしさを知っている俺らがそんな真似、考えただけで悪寒が走る。
 部長は卒業した後も中等部部活によく顔出した。それはかつての部長という立場からして不自然な状態ではない。それを利用してか副部長までもちょくちょく部活中に現れる。それは部活内の士気があがるので嫌とは言わない。俺が部長という存在感が少し薄れるのもまぁいい。
 問題はそこじゃなくて、

 校舎から少し離れた場所までくると見慣れた顔の後輩集団を見つけた。彼女より数歩遅れて歩いていた俺には気付かず、彼女の名前を呼ぶ。
「マネージャー、今からさ……って、ぶ、部長!?」
「俺がいるのはそんなに驚くことか? つーかこいつになんか用?」
「い、いいえ何でもないっス」
「おまえら今はテスト期間!! 部活休みにしてる理由が分からないとは言わせねーぞ」
「す、すみませんでしたっ」
 一度静かににらんで見せると、うきうきした表情を一変させて、綺麗に頭を揃えてダッシュで逃げて行った。あの脚力を常に使って試合をすればレギュラーにだってなれる気がする、といつも思う。
「わぁ切原君。真田先輩みたい」
「それ全く褒めてねーから」
 パチパチと拍手を送る彼女を横目に見ながら頭を振った。あの副部長と同列なんてちょっと勘弁して欲しい。
「でも私になにか用事だったんじゃないのかな?」
 先ほどの鈍い、という単語に直結する表情を浮かべる彼女と並びながらバス停に向かう。
「どうせたいした用事じゃないって」
「?? そうなの?」

「俺もそう思うな」

 突然割り込まれた会話にびっくりして後ろを振り向けば微笑を携えながら現れたのは、穏やかそうな笑みを携えた人物だ。
「え……先輩!? どうしたんですか!」
「君に会いに来たんだよ」
 恐らく俺の人生で一度も使わないだろう台詞は吐けるのは部長に他ならなかった。しかし絶妙のタイミング。空気まで読めんのかこの人。
 そうとう嬉しかったのか笑って駆け寄った彼女の顔が、かあ、と赤くなったのが見えた。どうせならこの顔、部長とツーショットで写真にとって後輩に見せ付けとけば無駄な願いも早々に消えるんじゃないかとも思うけれど、そんなことを提案してしまったらなんかこっちにまで火の粉が飛んできそうなので、思うだけにしてもう半年が経ったっていた。
「赤也ありがとね」
「……ウイッス」
 表面的には笑っている笑顔で言われた礼は、けれど目線が全く合わない。
「凄いね。弦一郎みたいだったよ」
 ――って見てたのかよ!
 そんな突っ込みが頭をかすったけれど、賢明にも口にはださない。
 なにしろ俺はこの一年で学んだのだ。

 うなだれている俺の状態に一瞥をくれながらもよく分からないと彼女は首を傾げる。
「先輩?」
「ああ、なんでもないよ。それにしてもテスト期間か。残念だな、せっかく君とデートできると思ってきたのに」
「えっ……あ、でも」
「そうだ、勉強会っていうのならいいかな? 分からないところ、教えてあげられるよ」
 酷く悲しむような表情をすると彼女はあわあわと焦って、解決策と言わんばかりに付け足した言葉にこくこくと頷いた。
 本当に素直だなぁと思う。
 けれど最初から最後まで彼女の反応を見通した上での策だということくらい、彼女より少しだけ部長と付き合いの長い俺は知っている。
「はい! あ、でも切原君」
 名案を思いついた部長に同意しようとして彼女はこちらを一瞥した。
「…………赤也がどうかしたの?」
「切原君、勉強」
「ちょっと待った! 大丈夫だから、今回も赤点逃れてみせるし、俺一人で勉強するから!」
 ――だから頼むから俺を巻き込むな!
 心からの叫びは彼女よりも部長に届いたらしく、くすり、とまるで何かを慈しむような、幸せそうな笑顔で笑った。もちろんそれは外見上の様子なだけで実際の心情は違うんだろう、だって、ほら、なんか背後のオーラがヤバイ。
「赤也、二言はないね?」
「ウ、ウッス」
 初めてこちらに向き直った顔はあの部長の顔だった。彼女が見えない位置だからってそんな変えることないだろうって思うくらいに鋭い目つき。青学の不二先輩といい、どうしてこう普段温和そうなイメージを持ってる人間に限ってその落差ってものが酷いんだろう。むしろいざというとき、脅迫させるときのためにいつもの笑顔なのかと思ってしまうくらいだ。いったいどっちが性質が悪いんだろうと考えて止める。どうせどっちもどっちで敵いっこないのだけは分かっていた。
「だって、じゃ、二人で勉強会しようか?」
「え? え? ……あ、はいっ!」
 わけが分からないときょとんとしながらも、振り返った部長の言葉に嬉しそうにうなづいている彼女。
 もしかしたらとんでもないことを口走ってしまったとも思ったけれど、すぐにこれでいいんだと思いなおす。昨日あたりにテスト勉強のために彼女にノートのコピーを頼んどいた自分に心から感謝した。もしそれがなかったら、三人で勉強会なんてことに成りかねない。そんなのは他に比べられないくらいに最悪な状況だ。
 柳先輩と真田副部長と交互に囲まれながら夏休みの宿題を終わらせた一年以上前の出来事がどれだけ容易いものだったかと思うほどに。
「それじゃ、勉強ちゃんと出来たら、またデートしよう」
「え? は、はい……頑張りますっ」
「うん、俺のためにも宜しく」
「? 先輩のためにですか? はいっ、私頑張りますね!」
 ――おーい、俺の存在忘れてね? ま、いっか。
 心の中でひとつ投げかけて踵を返した。幸い校舎から出てくる人は疎らで、彼女の家までは遠回りだから送らなくてすむのはいいことだ、と思ってみる。
 虫除けを公言して堂々とその役目を言い渡してきた部長のことだ、むしろ帰れとか思っているかもしれない、もしかしたらだけど。


 そう、俺はこの一年で学んだんだ。
 部長を怒らしてはいけないという必須の条件以外にもう二つ。
 彼女に手を出しても出させてもいけないということ。
 そしてなにより。

「うん、さ、帰ろうか。家まで送るよ」
「はい! あ、でもいいんですか? 先輩の家正反対ですよ?」
「どうして? 自分の彼女くらいちゃんと見送るのは当然だよね」
「せ、先輩……あ、有難うございます」
 ――あのバカップルを見てなにか突っ込んだ日には自分が惨めになるだけなのだということを。

 きっと気づかないだろう視線を送って自分の家に帰ろうと足を動かす。一瞬、三人で勉強会の図を思い起こして後悔する。きっと彼女は気付かないまま器用にこちらにプレッシャーを与え続けるくらいやってのけるのが我が部長だ。あたりに撒き散らす甘い空気と無言のプレッシャー。だったら今そのプレッシャーを感じといて早々に退散して、家で暗記に没頭したほうがまだましだ。
 気分をなんとか切り替えて、頭の中にここ一週間の勉強スケジュールを書き上げる。HR終了直後よりもずいぶんやる気は起きた。やる気とは名ばかりの強迫観念だけれど。
 常に軽いだけのカバンに彼女のノートのコピーを入っていることを確認し、部長の笑顔を思い出さないように早足で家に向かった。





***





 二週間後。
 休み時間に机に突っ伏していると、聞きなれた彼女の声が聞こえる。顔を見るとニコニコとこの世の春を謳歌するような笑顔のわけはきっと廊下に張り出された成績の上位に書かれた彼女の名前が物語っている。
 褒美に部長がどこか連れてってくれるのだと、予想範囲内の報告を受けて俺は感心する。もちろん部長にだ。相変わらず自分の願望と彼女の願いを同時に叶えてしまうところがらしくて恐ろしい。
「どうしたの?」
「いーや、なんでもねぇ」
「あ、そうそう。切原くんはどうだった? テスト結果」
 少し不安そうなその表情に気付いて視線を机の中に押し込まれた、テスト結果が書かれたプリントへと目を移した。
 さすがと言うべきか当然と言うべきか、赤点を全教科まのがれていた。
「大丈夫、赤点なし。俺だってやればできんだよ」
 笑いながらそう報告すれば彼女は自分のことのように喜んで自分の席へと帰っていくのを目線だけで見送る。
 彼女のお目付け役を問答無用で言い渡された役目は期限はきっともうすぐだ。最初は誤解されるとか嫌だとか色々思ったけど、周りの誤解よりなにより恐ろしいのはあの笑顔なのだからと諦めた。マネージャーの功績からすればこちらにもメリットはあったのだからと納得する。
 もう一度プリントを見つめてそれをくしゃり、と机の中に押し返す。
 配られた結果に不満はない。けれど前はギリギリだったその点数が徐々に上がってきていることに嬉しさはあまり感じなかった。なにしろテストの結果と部長の威圧感は比例しているのだ。
 慣れない頭の運動はやはり疲れる。どうせ疲れるなら体を思い切り動かすのに限る。
 勉強じゃなくてテニス練習に部長、付き合ってくれればいいのにと、今度彼女に取り合ってもらうよう聞いてみようかと考えて欠伸が出る。張り詰めた緊張感が一気に崩壊して急速に眠気が襲ってきたらしい。


 瞼を閉じる直前、窓の先、視界の隅で桜の蕾をひとつ見つけた。
 彼女の虫除けの任務終了まで。
 見てるだけで疲れ切るような二人を見続けるまで。

 ――あと、二ヶ月。

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