学園祭の準備も中盤、やっと皆この慣れない状況に慣れてきたみたいで、建物も料理の準備もそろそろ本格的に始動というところだった。もちろん、うちの部長がどんどんと決めてしまうから、今までだってそんなにのんびりとこと構えていたわけじゃないけど。
 決まった時間に所定の位置について、僕はとりあえず朝のウォーミングアップをする。初めにこの学園祭のことを聞いたときは、自分の部の部長ながら何を考えているんだろう、とも少しだけ思ったけど。でもこうしてみると他校のしかも強いテニス部員が集まるといい刺激にだってなる。いつの時間もテニスコートは誰かが練習に使用しているし、朝早くに青学の海堂君がランニングしている姿もよく見かける。
「……あ」
 例にも漏れず僕も今日は朝から宍戸さんと一試合、体を温める程度に動かした。そうして辺りを見回すと他の学生がちらほらと姿を見せる。そんな中で見知った姿を見つけて思わず声が出てしまった。そんな僕を見て宍戸さんは訝しげに僕の目線と合わせる、すると合点がいったらしくこちらに向き直る。
「あー運営委員だ。……なるほどねぇ」
「な、なんですか。なるほどって」
「最近お前らよく話してると思ってな」
 宍戸さんの口調は企んでいるようものではなく、単純な感想のように述べられて逆に困る。冷やかされてるならそんなことないです、と反論できたのだけれど。
「アイツ頑張ってるなー。選ばれたからって言ってたけど、よくまぁやるよな。跡部にだって反論するし」
 ぱたぱたと歩いている彼女を指差して頷いている宍戸さんに軽く同意する。相変わらず彼女は忙しそうだ。
 彼女はテニス部員でもない、一切今まで知り合わなかった同級生だ。曰く「なんだかクラスで運営委員に決められちゃった」なんて言っていたけれどその働きぶりは凄まじい。色んなところまで気を使えるし、なにより宍戸さんが言っていたように、自分の意見を言ってみるのだ、あの部長にさえ。
 いい意味でも悪い意味でも威圧感がある部長に知り合って間もない後輩の女子生徒があんなにはっきり意見が言えるとは思えなかった。テニス部の人間だって対等に会話ができる人はそうはいない。それは性格なのか、僕にも痛いところをついてきてくれたけれど、いつだってそれはいい方向に向くから不思議だった。

 アトラクションの打ち合わせがあると言って宍戸さんと別れた後、水分補給をしに行くついでに噴水がある場所へと足を運ぶ。  すると偶然そこに彼女がいた。

 いつもなら走り回って忙しそうな彼女が、少し困ったように噴水の近くの水飲み場で手を水につけていたのが目に入り、思わず声をかけてしまった。
「どうしたの?」
「! ……あ、長太郎君」
 彼女は驚いたのか、一度びくんと肩を動かした後躊躇いがちにこちらを振り返った。
 テニスウェアの自分とは違ってよく見る、氷帝の制服を着込んで片腕には“運営委員”のタグが見える。いつもと変わらない格好だけれど、彼女の顔には一箇所だけ赤みが差していた。
「あれ? どうしたの、頬」
「えっと、あはは……」
 その左頬が少しだけ腫れているのは気のせいじゃないと思う。彼女はいつだって笑顔を携えてこちらに向かってくる。けれど、今日に限ってはその笑顔は柔らかいものではなくて、ひどく不安定な困ったような顔だった。しどろもどろといった感じで目線を左右に動かしている彼女を見ながら腫れた頬を見つめる。原因は考えるまでもなかった。
「もしかして、部長の……」
「あはは、女の子は凄いねぇ。あと長太郎君もするどいなぁ」
「僕、も?」
 文章の言い回しが気になったけれど、それはきっと部長に気付かれたのだろう。認めている人間なら尚更に周りに目がいく人だ。
 部長はカリスマ性とか実力とか色々あるから、やっぱり人気も凄い。何百といる部員を従えているから当然と言えば当然だけどテニスに対する執着心は見習いたいくらいだ。だから他のことにはあまり気にかけない。きっと女子生徒が部長と話す場面を目にするのはそうそうあったことじゃないはずだ。
「本当は隠すつもりだったんだけどやっぱりばれちゃった」
「そんな腫れてれば僕にだって分かるよ。その、大丈夫?」
「うん。きっと分かってくれるよ」
 それがその叩いた相手に対してのものだと分かって、少し笑ってしまった。
 彼女は不思議そうにこちらを見ていたけれど、理不尽に怒ってきた見ず知らずの人を信頼してしまうなんて本当にこの人は真面目すぎるくらいだと、僕ですら思う。
「もしなにかあるんなら、僕が部長に伝達しようか?」
「大丈夫。テニスの練習大変でしょ? 喫茶店だって長太郎君が頼りなんだから!」
 首を振りながら彼女はきっと気付いてないだろうけど、僕にとって少し嬉しくなるようなことを言ってくれる。
 けれどそれにね、と続けた言葉に少し自分の表情が曇ったのがわかった。
「跡部先輩が私によくやってるって言ってくれたの。認めてもらえたから不謹慎だけど嬉しかったよ。だから気を使わなくたって大丈夫だよ」
 いつものような笑顔になって話す彼女の頬はまだ赤くて、けれど今度は右頬も少しだけ紅いからそれが痛みなのかそれとも照れなのか分からない。

 ――照れだとしたら、誰に?

 なんだかどんどん暗くなるような気持ちがしたから、それを振り払うようにポケットに入っていたハンカチを取り出す。いつも汗を拭くために持っているハンカチを今日は幸い一度も使っていなかった。
「とりあえずこれで冷やして」
「え、いいよいいよ。ハンカチ濡れちゃうよ?」
「そんなのいいんだよ。ほら」
「う、うん」
 そのまま水に濡らしたハンカチを彼女に強引に渡すと、ためらった後に左頬に当ててくれた。
「ありがとう、洗って返すから……本当いい人だね、長太郎君は」
「……そ、そう……」
 それは最近彼女からよく聞く言葉だ、そして最近ちょっと引っかかってしまう単語だった。いい人という評価は褒めているはずなのに他の誰かから言われればありがとうと返せるのに。
 もちろんその理由が分からないとはいえない程度には自覚していることがあるけれど、それを確定させてはいけないくらい彼女と知り合ったのはつい最近、会話だってそれほど多くはないものだった。
「いや……違うよ、僕はただ、その、君が痛そうだなぁって思っただけで」
「ふふ、そんなところがいい人なんだよ。でも助かってるから私は嬉しいよ?」
 そう呟けば今度は本当に嬉しそうに笑顔をくれる。彼女は空を仰ぐようにして建てられた時計を見つめて目を軽く見開いた。
「あ、そろそろ跡部先輩に報告行かないと。ごめんねハンカチ返すから! またね」
「ねぇ!」
 走り去ろうとした彼女を無理やり止めてしまった。少しだけ息を吸い込んで首かしげた彼女に向かう。
「僕でよかったら君の手伝いくらい、いつでもやるから遠慮しないで言って」
 なんだか深刻そうに見えたのかもしれない、実際ある意味深刻だったけれど、彼女は傾げていた首をさらに傾げて笑った。
「??? うん、ありがとう」

 きっと真意は全然汲み取ってもらえていないだろう。彼女は気が付くし凄く真面目で頑張りやだけれど僕のそういった想いなんてものは全く気付いてくれていない。所謂鈍感なのだろう。
「……絶っ対、分かってないよなぁ」
 テニスに関しては対処法など結構思い浮かぶのにこれに関しては全くだ。なにしろ彼女は僕を友達とさえ思っていないのかもしれない。それはそれでいいことなのかもよく分からない。
 はぁ、とため息を吐くと空気を読んだように携帯のバイブ音が鳴った。アトラクションの集合時間を知らせるアラームだった。
 携帯電話を取り出してそれを止めると同時に思い出した、彼女の電話番号を聞いたことを。あの時は頼りになる同級生だから色々学園祭の意見や情報も聞けるかも知れないと思って聞いただけだったけれど。
 そう多くはないアドレスの中に彼女の名前を見つける。
 同じ学校でしかも同じ学年。クラスは違ってもすれ違った時だって会ったかもしれない。学園祭がなくたってこれから先知り合えたかもしれない。けれどこんな機会だからこそ彼女と短期間で名前で呼んでもらえるまでになれたんだろう。

 電話をするならいつがいいのだろうかと考えながら集合場所へと向かう。学園祭のことでという電話番号の交換だったから彼女は吃驚するかもしれない、断られるかもしれない。それになにより迷惑かもしれない。でも。
 いい人、は訂正して欲しかった。
 いい人と思われるのは悪い気がしないけれどそれだけじゃ全く変わらない、本当に“只”のいい人になってしまう。部長とはもっとちゃんとした会話をしているのかもしれないという不安だってないといったら嘘になるけど。
 彼女に僕が誰にでも優しいから彼女にも優しいんだ、という誤解はしてほしくないから、せめて。
 携帯を握って集合場所へと走る。日差しが強い、もうすぐ本格的に日が一番高くなりそうだった。


 それから携帯を見つめる時間が増えて、宍戸さんから変な目で見られたりしたけれど、それでも電話ができたのは数日後のことだった。





***




 学園祭が無事に氷帝の優勝という有終の美でしめられて普段どおりの毎日が戻ってきた。普段、とは学園祭の仕事がないというだけで、以前とは僕の生活の中で決定的に違うことがあった。それはこうして隣で笑っている彼女が“彼女”としていてくれること。

「はい、ありがとう」
「え?」

 人生でこんなに恥ずかしかったことがあったんだろうかと思うくらいになんとか、なんとか気持ちを伝えたのは結局学園祭が終わる寸前だった。彼女はいつもの笑顔で笑ってくれて頷いてくれた。それだけで嬉しかったのに、彼女は僕にも内緒でマネージャーの正レギュラーになってしまった。そこに僕らの推薦なんて必要としなくて自力でなってしまったのだ。
 学園祭の功績からか部長の信頼あって、微妙にまだ部長との噂があるのは知っていた。僕がいくらそんなことに無頓着とは言っても部長の噂なんて耳を閉じても聞こえてくるし全国出場でファンも更に増えたのだろう。それに決して関していい気分というわけではなかったけれど、彼女は付き合ってることをわざわざ公表することもなく、かといって隠しもせずに夜までかかった練習にマネージャーとしても付き合ってくれている。

「うん。ほら学園祭でハンカチ貸してくれたでしょ? 返すって言ったのに遅くなっちゃってごめんね」
 えへへ、と笑って差し出された懐かしいハンカチを受け取る。
「そんなのいいけど……でもこれ新品じゃ」
 肌触りと折り目がアイロンをかけたにしてもやけに綺麗についていて不思議そうに言えば、僕よりずっと背の低い彼女は見上げて言葉に詰まったのだろうか少し困った顔をした。
「あ、もしかして無くした? それだったらわざわざ買わなくてもいいのに」
 苦笑気味に僕はハンカチを握る。
 彼女はしっかり者の癖に、ちょっとそういったことに抜けていることがある。それが知り合って半年以上経って分かった。あの時はしっかりしていたのに意外だったと言うと「学園祭のときは絶対ミスしちゃいけないって思ってたから頑張ってたの」と少し頬を膨らませて拗ねたような口調で返されたのを覚えている。
 だから今回もそんな理由だろうかと、思って彼女を見つめる。こちらを見ていた視線が下ろされる。直前に車道を通った車のライトで少し顔が紅いのが見えた。

「ち、違うの。……あれは、私がほしいなぁって……思って。だから同じのを見つけたから買ってきたのに、分かっちゃった?」
「え」
「だ、だって、長太郎君が貸してくれたでしょ? 本当はすっごく嬉しかったの、返しちゃうのもったいなくて」
 下を完全に向いてそんなことを言うものだから僕には彼女の表情が見えない。唐突でかつ予想できない回答に僕はさすがに瞠目する。

 背が高くてよかった、きっと僕の顔は彼女にはよく見えないだろうから。
 今が暗くてよかった、きっと彼女とは比べ物にならなくらいに紅くなっているだろうから。

「……それ、ずるいよ」
 ため息をひとつついてそう返すと、彼女は視線をこちらに合わせて悲しそうな顔をする。
「や、やっぱり嫌だったよね? ……ごめんね」
「違うよ。そうじゃなくて、君が」
「???」
 くしゃりと、出会った時より伸びた彼女の長い髪に手をやるとあの時と変わらないように分かっていないんだろう顔をしてくる。ああもうどうでもいいやあんな噂と今はっきりと思えた。
「嫌じゃないよ。それじゃ、あれは持っててね」
「いいの?」
「うん、無くさないでね」
 答えると彼女は嬉しそうに頷き返してくれた。相変わらず僕の気持ちには鈍いのに、部活中や試合中は驚くくらいにしっかりしていて絶対に僕にわがままを言ってくれない。それは嬉しいけど時々不安になったりもするれど、こんな可愛いことをしてくれるのなら僕たちはまだまだ付き合っていけるに違いないと頬が緩んだ。知り合った状況なんて関係ない、付き合うまでの時間なんて関係ない、彼女が僕のそばにいてくれるという事実だけが重要なんだと彼女は僕に思い知らせてくれた。

 もしいつかまた彼女があんな風に誰かに叩かれることがあったなら今の僕はきっと怒るんだろう。彼女みたいに分かってくれるだろうなんて悠長なことは絶対に思えないんだろう。
 ――ほら、僕は全然いい人なんかじゃない。
 くれたハンカチは淡いブルーだった。彼女が持っているというハンカチを買ったのはきっと適当に買ったんだろうけれど。まさかその数ヶ月後、自分にとってこんなに大切なものになるなんて思いもしなかった。

 ハンカチをいつかのようにポケットに入れて彼女に向き直る。
「じゃあ、これと前にあげたのって全く一緒なんだ?」
「? うん。だから気付かれないと思ったのに……」
「じゃあさ、ハンカチ。おそろいになっちゃうね」
 作戦失敗だったと悔しそうな顔をしている彼女にふと自分が思ったことを言ってみれば、少し吃驚してそのあと少しためらった様に僕の腕の裾をくい、と引っ張った。
「?」
「長太郎君……これ、無くさないでね?」
 先の自分と同じ言葉をそんな紅い顔で言うものだから、今度こそ僕は紅くなりながらしっかり笑って彼女の手を取った。
「当たり前だよ。絶対無くさない」
「うん!」
 握り返された手は暖かくて僕はうっかり幸せというものに浸ってしまった。今になればあの数週間の思い出は凄く貴重だった。部長に心から感謝しよう、と現金なことを思ってしまうほどに。


 ああでも、小さな我侭を言えるのだとしたらと繋いた手を横目で見ながら思う。
 ――できればもう少し、彼女の家が学校よりも遠かったらよかった。

短縮的な恋の彼方