「おい、ジロー! 起きろ!」
「……ん? あーおはよう」
ついさっきまで使用していた教科書を丸めて窓際の男に五分程度の力で頭をたたくと、ポカリ、と景気のいい音がした。けれど相手は怒りもせずに慣れているのか未だ夢の中にいるような声でこちらを向いた。
「ほらよ、来月の部活。ちゃんと見とけよ」
「ああー、ありがとー」
うんうん、と頷きながらそのままプリントを机の中に突っ込んだ。わざわざ持ってきた苦労なんて気にもしていないのだろう。
「おい、ちゃんと見ろよ」
「ええー、あーうん。んー……あれ?」
俺の声に反応したのか一度しまわれたプリントを広げた。きっと来月にもう一度確認するまで一度も開けられることがないだろうそれをまじまじと見て、ジローは少し声を上げた。やっと起きた声だった。
「第二日曜日、休みなの?」
「ああ、なんか跡部が用事だとよ。……つーかそれは前にも言ってあるだろ。しかもそのあとすぐに定期試験だから、当然だろ」
「……そうだっけ?」
「おいおい……」
相変わらず普段から眠っていることが多い奴だと感心してしまう。そもそもなんでこんなに寝られるのかも謎だったが、それは解明されることがないだろう。樺地がいればさほど問題はないのだから。
「でもうれCー、忘れないようにしとかないと」
うきうきと一瞬で表情を変えてジローはそのプリントを鞄へと綺麗にしまいこんだ。
――えっと、気持ち悪いんだが。
「なんだよ、お前もなにか用事か?」
この男は寝てばかりいるとは言っても、なんだかんだと氷帝内で三年レギュラーの地位を維持している。練習を嫌うことはないし、そもそも部活のために中学に来ていると言っても過言ではない。
「うーん、多分。一応聞いてみないと、携帯出るかなー?」
「なんだなんだデートか?」
普段見ないジローの携帯は鞄の中にしまいこんであり、一応校則違反なのだがそこは自分も持っているのであまり気にはしなかった。そもそもわれらの部長なんてものは、そんなものよりよっぽど校則違反なんじゃないかと思うような行動をしているのだから。
九割冷やかしで言ってみれば、ジローはいつもどおりに気の抜けた顔でこちらを向いた。
「うんー。テスト前だけど大丈夫かなー?」
「そうかそうか…………、え――? はああああ!!??」
反応が遅れてしまった。なんて後悔はあとでいい、いきなり何を言ってるんだこいつは。
あまりに吃驚して大きく出た声にジローのクラスメイトがこちらを向いた。視線が痛い。なんでもないと、どうにか事なきを得ると今度はジローが不思議そうにこちらを向く。
「なになに? どうしたの」
「どうしたのじゃねぇ! お前いつの間に」
「あれー? 言ってなかったっけ?」
「言ってねぇよ!」
ごめんごめんと、謝ってくるジローに頭を抑えた。別にそれを教えて欲しかったとかは思わないけれど心底不思議だ。こんな常に寝てる奴を好きになる奴も、そもそもジローがそんなことに興味があったという事実も。
確かに我が部活は人気がある。確かにあるのだが、それはあくまで部長である跡部が大半を占める。あとは長太郎や忍足などもあるといえばあるが跡部が絶大すぎてそう思えないほどだ。ジローも人気はあるのかもしれないが、そんな出会いも気にも留めていなかったはずなのに。そもそもテニスに集中しすぎてあまりみんな興味がないと言ってもよかったのに。
「で、誰だよ? もしかして他校かよ?」
「ううんーうちの中学だよ」
マジであのきゃあきゃあしてる連中の中の誰かかと一瞬思ったがそんなはずはない。そもそもあの団体はほぼ部長のファンで構成されているらしいし、ジローは練習中以外寝ている。そんな関係性があるはずもない。
――ジローが寝てないときに会った女子生徒……誰だ……誰――あ。
こうなればやけだと考え込んでいると一人浮かんだ。というか、一人しか浮かばなかった。テニスの試合や練習以外で珍しく起きていたジローといえば。
「学園祭の、運営委員!」
「あったりー!」
何が当たりだ。
彼女が欲しいとかを思ったつもりはないが、こんな幸せそうな顔をしてる奴を見るとなんだか腹が立つ。
そういえば、あの跡部が主催した馬鹿馬鹿しい学園祭で初めの頃は当然やる気なんて何もなく、寝ていたジローがだんだん参加していたのを思い出した。
「お前、いつのまに……」
確かキャンプファイヤーで踊っていたのは目線に入ったけれど自分は性に合わないと無視をしていたし、抱き合っていたようなことを長太郎から聞いていたが、こいつには前例もあったからさほど気にしなかった。
「お前、倉庫のやつも作戦か? 抱き枕」
「えー? あー、あれは違うよぉ……って、抱き枕? なにそれ!」
机をたたいて立ち上がるともう一度クラスメイトから視線を感じた。けれどジローは気にしていないようで俺に詰め寄ってきた。
「そりゃアイツは言えねぇよなぁ。お前、寝ぼけて抱きしめてたんだよ」
「うっそ!?」
「本当だ。ったく背ちっさいし窒息しそうだったぞ」
「ええー初耳だCー」
そういえば顔真っ赤だったなぁと呑気に言ってはいるものの、顔が少し暗くなったからこれから怒られにでもいくのかと聞いてみれば。
「そうじゃなくてー、もったいなかったなぁー。どうして起こしちゃったの宍戸ー」
「……はぁ?」
そんな非難めいた目を一身に浴びる。
――なんか、殴りたい。
ノロケ話とは無縁の俺の人生で一番初めがこいつでしかも苦情だったから、なんか訳の分からないイライラが募ってくる。落ち着け俺。
「んだとぉ? アイツは助けてくれって言ったから助けたんだよ! そもそもお前がでけぇから苦しそうだったんだからわざわざ非難される覚えはねぇよ!」
「だってもったいないCー」
そうぶつぶつ言っているジローに嫌味のひとつでも言ったみたくなる俺は絶対に悪くない。
「アイツの方が年下なのによっぽどしっかりしてるからなぁ、せいぜい頑張れよ」
確かにあの運営委員は機転がきく。おかげで氷帝の喫茶店が優勝したとも言えるし協力もしてくれた。だから恋愛感情はなくとも、こんなヤツに振り回されるのも可哀想というものだ。もっとちゃんとした相手でもいいとも思う。これは幸せそうなジローへの僻みじゃない、決して。
「うんうん、そっか〜。じゃ今から聞いてみる!」
けれど返された言葉は妙に明るくて、脱力してしまう。いったい何だっていうんだこいつは。
「は?」
「もう一回抱き枕してくれるかなぁ?」
駄目だこいつ。そう一言心の中で呟く。目の前には強い相手と戦った後のようだ。きらきらしてまるでいいことを聞いたと言わんばかりに。
「……さぁ、しらねーよ」
いい加減疲れた俺に容赦なく聞いてくるジローになんとか一言返して俄然うきうきしてる男を見つめた。
「俺、次移動だから、部活でな」
もはや携帯に熱中してて聞こえていないだろうジローに挨拶をして、そのまま廊下へと足を踏み出した。
階段を下がって歩き続けていると、うわさのあの子とその友達だろうか2人で歩いていた。同じ中学なのだから今まで何回も会っているのにも関わらずなんだか気まずい。もちろんそう思っているのは俺だけだろうけど。
「こんにちは、宍戸先輩」
「……おう」
すこしまじまじと見てしまったのか彼女は首をかしげた。
――なんか、本当ジローのどこがいいんだろうか。
確かに部活仲間で信用できるし実力もお墨付きだ。ジローを嫌いというわけではないけれど、ましてこの後輩の子を恋愛対象なんて見たこともないけれど良い子ということだけは心底分かっている。
「……頑張れよ」
「? え? あ、はい。先輩も部活頑張ってください、応援してます」
まったく理解してないだろう笑顔でこっちに向かってくるから、鈍感なんだろうなということは分かった。ジローとどっちが天然なのだろうかと、どうでもいいことが頭をよぎる。
「……おう」
そもそも彼氏がいるのに俺の応援とか言っていいんだろうか、ジローとかその辺どう思ってるんだとか考えながら、先ほどと同じ言葉を返せば少し嬉しそうに笑う。人好きする笑顔だ。
本当、頑張れ。
もう一度心の中で呟いてすれ違う、もちろんこの言葉は自分自身へのものでもあったけれど。
なにしろあのジローとあんだけ長い話をしたのは初めてかもしれない、しかもよりよって恋愛、だ。まったく縁のない会話があれだけできたというのはなかなか上出来だったのではないだろうか。
――頼むから、俺に相談事なんてするなよジロー
そんな願いを賭けながら俺は授業に遅れまいと足を速める。ジローは天然だから跡部のような芸当も忍足のようなこともできないだろうから、あそこらあたりを参考にされても困る。あんなタイプは部内に一人ずついれば十分だ。
「あれ? 携帯鳴ってるよ?」
そう考えていれば、彼女の友達が言ったのが廊下の角を曲がるときに聞こえてため息を吐く。
羨ましいというか先を越されて悔しいというか、兎にも角にもなんだかとても脱力した気分だった。