波の音がする。
 潮の匂いがする。





 押しては引くような形容し難い音を背で聞きながらぼんやりと帰路に立つ。
 とことこと足を動かす。なんだか夢みたいだなぁ、なんてどこかの私が考えながら家に着く。
(でも……もうすぐ、卒業だもんね)
 思考はまとまらない。さっき言われた言葉の意味がまるで理解出来なかった。
 ぽすんとベッドに横たわってみるけれど、結局何にも導き出せずに目を瞑った。

 次の日もその次の日もあまり変わらなかった。なんだかこんなものか、と自分で拍子抜けするほどだ。
「おはようっ、竜子さん」
 そんな中で教室へ向かう友達の姿を見つけて、声を掛けると竜子さんはびっくりしたように目を見開いた。そうして隣に並ぶ。
「おはよ」
 そう言ってくれたけれど、目線はずっとこっちを向いたまま真顔だ。
「……」
 無言のそれがなんだか間違えたことをしてしまったような気がして慌てる。
「あ、あれ? 竜子さんなんか私駄目だった?」
「……ああいや、違うんだ。気にしないでくれ」
「? うん?」
 不思議に思いながらも、それじゃまたね、と身を翻して進もうとしたら名前を呼ばれる。
「今日空いてるかい? 久々にお茶でもしようか」
「えっ、うんっ行きたい!」
 それはそれは嬉しい提案だったので、二の句も告げずにすぐに頷いた。竜子さんは笑って教室に入って行った。


 評判の喫茶店に竜子さんと向かってお茶をする。美味しそうなケーキに紅茶。なんだかとても幸せだなぁ、と頬を緩めてケーキをほおばっていると、そうだ。と竜子さんがこちらを見る。
「……アンタ知ってる? はね学のプリンスが学校辞めたって」
 その名の通り学校の有名人だった彼の行動は瞬く間に学校中に知れ渡った。もちろん取り巻きの女の子たちの阿鼻叫喚のような悲鳴も今日もよく聞いたし、直接私に聞いてくる子も居た。出席日数も足りているから別に辞めたわけでもないのだけれど、もう来ないと知っているからこそその表現に間違いはなかったように思える。
「……えっと、うん」
 素直に頷いて、取り巻きの彼女たちには言わなかった本当のことを、直接聞いたんだ、と笑って言えば少し困ったような顔が返ってくる。
「そうか……そうだよな。アンタ等二人で良く居たもんな。修学旅行とかも。でももっと意気消沈してるもんだと」
 竜子さんと志波くんと私達で遊園地とかも行ったっけと思い出していると、竜子さんはけれど安心したようには見えない表情でこちらを見てくる。心配をかけるのは申し訳ないけれど、単純に気にかけてくれるのは嬉しい。
「しょうがないよ、佐伯くんが決めたことだから」
 笑って竜子さんを見ると、顔を顰めたままため息を吐く。
「アンタって訳分かんないとこで聞き分けいいよな。向こうの考えはともかく、アンタの考えはどうなんだい?」
「わたし?」
「そう。アンタはこれでいいのかってこと」
 きょとんと首を傾げた私に、呆れたまま竜子さんはフォークをこちらに向ける。
「アタシははね学のプリンスなんて趣味じゃないし好きでもないけど、アンタのことは気に入ってんだ」
「竜子さん」
「だからアンタの味方だよ」
 笑顔で言う言葉はとても破壊力抜群だ。少し鋭い目線が柔らかいから、なんだか私まで照れてしまう。
 そのあとに続いた台詞と表情には若干凄味が増したけれど。
「もし、アイツに気に入らないことされたんだったらアタシに言いな。ぶん殴ってやる」
「だ、大丈夫だよ。そんなことされてないよ」
 慌てて言うと、ならいいけど、と納得してないままケーキへとフォークをのばした。

 随分とおしゃべりをしてしまって、辺りは日が早くなってもう暗くなってきている。
「バイバイ、竜子さん」
「ああ、また明日。……なぁ」
 手を降った私を呼び止めた竜子さんは私の方へと近寄ってくる。
「なーに?」
「無理すんなよ」
 頭をくしゃりと撫でて笑う姿は綺麗で格好いい。
 とても嬉しくて、なんだか切なくてどうしてか繋ぎ止めておきたくて縋りたくなる。
「……ね、竜子さん。卒業してもずっと友達で居てね」
 私、竜子さん大好き。そう告げると嫌そうな呆れた顔をされたけれど、少し頬が紅かったから照れてるだけだとわかる。
「分かった分かった。アンタも、何かあったらアタシに言うんだ、いいね?」

 帰り道は竜子さんの気遣いを思い出してなんだか笑みが漏れる。ああ、いい友達をもったなぁなんて思う。
 やっぱり高校生活は楽しかったと思うけど、それもあっという間で、もう数ヶ月もない。あれだけ必死にやっていた部活も自由参加で、受験生になって勉強もそれなりに忙しい。先生は合格圏内と言ってくれたけど、それでも本番は一度だけで、その言葉で自信はついたけれど安心してはいけないし。やらないといけないことも、思い出も沢山あるんだ。





***





 そんなことを考えて海岸を歩いていると、最近見ていなかった夕日が目の前に差し込んだ。
「わぁ、綺麗……」
 部活があったときはもっと遅い時間に帰っていたし、最近は学校で卒業を惜しむように友達としゃべっていたからこんな夕陽を見るのは久々だ。
 空に浮かんでいるときとは全く違って、大きくてまあるい夕日がオレンジ色と赤色のグラデーションを放って海へと沈んでいく。そうして空の反対の端は少し水色が濃くなって夜が来るのを告げているようだった。

「俺、この時間のこの場所、凄く好きなんだ」

 それを見つめていたら、どこかで声が聞こえて思わず振り返る。けれど周りには誰もいなかった。
 そうして、それは一年前の同じ時期の記憶で頭から聞こえた声なんだと分かる。
 だってそうだ。だって。

「……佐伯、くん」
 小さく呟いてみても波の音しか聞こえない。用もないのに呼ぶなと怒ったような声も、いきなりなんだよと困ったような、呆れたような声もしない。チョップだって来なかった。
(ああ、そっか。もう居ないんだ)
 彼はもう此処にいないんだ。一足先に卒業してしまったんだ。
 一年浪人して、親が言った大学に行く。そう言って突然いなくなってしまった。それまで一緒に帰ったり、休日には遊んだり、元旦には初詣にだって行ったのに。
 言われた時はなんだか真っ白で、日本語なのにあまり理解出来ていなかった。
 でも少しだけ動いた私の頭は、仕方ないんだと結論を出した。だって佐伯くんには佐伯くんの考えがあるし、自分がどうにかできる問題でもなかった。
 それにクリスマスのときが決定打で、珊瑚礁と学校の勉強でいつも疲れていたから、一年間休むのもいいのかもしれないと思ったのも確かだ。だから、いいと思った。しかないことだと思った。
 竜子さんにも言ったけど、他の誰でもない、佐伯くんが決めたことだから。

 ――アンタの考えはどうなんだい?
 竜子さんの言葉がリピートする。
 あの寂しげで少し苛立って、でもどう考えても心配そうに私を見ているあの姿を思い出して、そうしてその言葉の真意を思い出す。
 どうして竜子さんを見て縋りたくなったのか、それはちょっとさっきの竜子さんと佐伯くんが似てたからだ。言い方は厳しいけれど、本当は凄く優しい。頭を撫でる仕草もなんだか被って見える。
 もちろん、竜子さんの方がずっとずっと。
(……ずっと、なんだろう)
 竜子さんとの違いを言えるほど、私は彼を見て居ただろうか。
「分かんないよ、佐伯くん……」
 道路の脇で、海を見つめながら呟くと視界がぐにゃりと歪む。
「……あれ?」
 おかしい。だって寂しかったけれどあの直後でさえ涙は出なくて冷静だったのに。
 そこまで考えて、あの人に最後に言われた言葉が脳裏をかすめる。

「私は、」
 私の考えは、いつだって同じ。
「……佐伯くんは、佐伯くんだよ……」

 水族館や海が大好きで、人混みが嫌い。珊瑚礁のことがいつも頭にあってマスターが大好き。
 学校と珊瑚礁の両立のために頑張ってて、でも素直じゃなくて、チョップをしてきたり時々私には分からないことを呟くけど子供みたいに笑う。
 それが、私の知ってる佐伯くん。
「それが、佐伯くん……だよ」
 竜子さんの言葉にしろ佐伯くんの言葉にしろ、私にちゃんと届くのはいつも少しずれて遅い。竜子さんがあんな表情だったのは私が実はとても落ち込んでいるのを私自身よりも早く感じ取ったからで、佐伯くんの言葉の真意は私はまだ気付けていないのかもしれない。
 鈍い鈍いとよく佐伯くんに馬鹿にされていたけれど、本当に私は鈍いみたい。佐伯くんのことも想いもきっと全然分かってない。
 ……でも。

 今度は遊覧船に乗ろうって言ったよ。
 バレンタインのチョコだってだんだん上手くなったから今度こそ大成功するからって言ったのに。
 それで成功したらお礼にケーキ作ってくれるって言ったのに。
 どこまで私が佐伯くんを見ていたかは分からないけど、でも一緒に居た全部が私にとっての佐伯くんだった。
 いろんな思い出があるよ。全部全部、嘘だったわけないよ。
 そんなはずない。

 思えば佐伯くんに会って、私の高校生活が始まったのに、終わろうとしている今に佐伯くんがいないんだ。
 仕方ないと思ったのに、海を見ていると胸が苦しくなる。やっぱり私は彼が好きだったんだって、やっと分かったんだよ。わかっていたけど、本当に、本当に憧れでも思い込みでもなく、ただ好きだったって、好きなんだって分かったんだよ。


 変わらずにこのままでいられたらいいのにって思っていたから卒業するのが怖かった。でも、もう変わってしまったんだ。卒業するより前に、一番初めから傍にいたはずの人影も声も見えない。
 あんな辛そうな顔じゃなく、王子様みたいな笑顔じゃなく、私を驚かそうとしてそれが成功した時みたいな笑顔が見たい。声が聞きたい。  そうして今までみたいに側に居て欲しかっただけなのに。
「佐伯、くんのばか……嘘なんて言わないでよ……」
 珊瑚礁に行けば絶対に会えたのに、もうあそこにはいない。
 わかっていたはずで仕方ないと思って居たのは、現状を理解してなかったのだと分かって。その事実が重くて、苦しくて、綺麗な海もよく見えなかった。

The important place.